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[[ファイル:Sack of Rome 1527.jpeg|right|thumb|ローマ略奪を描いた銅板画]]
[[画像:Sack of Rome of 1527 by Johannes Lingelbach 17th century.jpg|thumb|ローマ略奪を描いた絵(''[[:en:Johannes Lingelbach|Johannes Lingelbach]]''作)]]
'''ローマ略奪劫掠'''(ローマごうりゃくだつ、{{lang-it|Sacco di Roma}})は、[[1527年]][[5月]]、[[神聖ローマ皇帝]]兼[[スペイン]]王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の軍勢が[[イタリア]]に侵攻し、[[教皇領]]の[[ローマ]]で殺戮、破壊、[[強奪]]、[[強姦]]などを行った事件を指す。'''サッコ・ディ・ローマ'''、'''ローマ劫'''('''ローマ劫掠''')とも言う。
 
この頃、イタリアを巡っては[[ヴァロワ朝]]の[[フランス王国]]と神聖ローマ帝国による衝突が繰り返されてきた([[イタリア戦争]])。[[1515年]]にはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の軍が[[ミラノ]]に侵攻し、[[1521年]]に[[ミラノ公国]]を支配する[[スフォルツァ家]]を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は[[教皇]][[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、[[フランス]]と結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。