「冨士大石寺顕正会」の版間の差分

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|前身 = 妙信講
|後継 =
|設立 = [[19421958年]] {{信頼性要検証|date=2018-08}}
|設立者 = [[浅井甚兵衛|浅井甚兵衞]]
|廃止 = <!-- 廃止年 -->
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== 歴史 ==
*[[第二次世界大戦]]中より
**[[1942年]](昭和17年)、[[日蓮正宗]][[妙光寺]]([[東京都]][[品川区]])の総代だった[[浅井甚兵衛|浅井甚兵衞]]が初代講頭となり、妙光寺所属の[[法華講]]の一講中として結成した妙信講が前身。当時は戦時下のため折伏弘通は困難を極めたが、甚兵衞は事業経営のかたわら、寸暇を惜しんでは講員を励まし、弘通を進めた<ref>「顕正会『試練と忍従』の歴史」(冨士大石寺顕正会)13~14)13-14頁</ref>。
**浅井親子らは妙光寺から豊島教会(現・[[妙國寺 (板橋区)|妙国寺]]。[[板橋区]])へと所属変えを行い、その後に法道会(現・[[法道院]]。東京都[[豊島区]][[池袋]])へと所属を変えたが、住職の申入れを受け、法道会法華講と合併するため発展的に解散。その後に法道会から離脱し、妙信講を発足するが、やがて[[創価学会]]が中心となって寄進・建立した正本堂の教義上の位置づけをめぐり日蓮正宗・[[創価学会]]と激しく対立するようになる。
*[[1958年]](昭和33年)
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*[[1963年]](昭和38年)
** [[10月31日]] 機関紙「顕正新聞」が日蓮正宗と創価学会からの圧力を受け、廃刊。これに代わる機関誌として月刊『富士』が創刊され、その編集長に昭衞が就任。
* 1967年(昭和42年) 10月 正本堂発願式。席上、[[池田大作]]・創価学会会長は「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と宣言<ref>「発誓願文」 - 「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)316~317頁。。</ref>。
* 1968年(昭和43年)1月 大石寺第66世法主[[日達|細井日達]]が、「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と発言<ref>大白蓮華201201号</ref>。
* 1970年(昭和45年)
** 3月25日 日蓮正宗の宗務役僧、及び創価学会首脳に対し、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を送付<ref>「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)48頁</ref>。
** 4月3日 浅井父子が大石寺大奥の対面所で細井日達と対面。日達は、正本堂が日蓮大聖人の御遺命の戒壇ではないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを認め、正本堂の誤りを訂正することを約束<ref>「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)48~50頁</ref>。
** 5月29日 浅井父子が大石寺対面所で[[和泉覚]]・創価学会理事長及び[[秋谷栄之助]]副会長、[[森田一哉]]副会長と正本堂の意義につき論判。数日後、森田らは細井日達に対し、今後学会は「正本堂は御遺命の戒壇」「広布はすでに達成」とは言わない旨を誓約<ref>「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)66~67頁</ref>。
** 9月11日 妙信講と創価学会との間で、「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない」等と記載された「御報告」と題する書面を作成<ref>「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)69~70)69~70頁</ref><ref name=":9">山崎正友「盗聴教団」(1980年、晩聲社)40~52頁)。</ref>。
*1971年(昭和46年)11月15日 池田大作・創価学会会長に対し、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」と題する書面を送付<ref>「顕正会の歴史と使命」(日蓮正宗顕正会)72頁</ref>。
*[[1972年]](昭和47年)
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**10月1日 正本堂完工式。宗門・学会はこの席に[[キリスト教]]神父数名を来賓として参列させた<ref>「顕正会の歴史と使命」P92</ref>。
**10月3日 創価学会が[[聖教新聞]](同日付)紙上に正本堂の意義を訂正する文を掲載。「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである」等<ref name=":8" /><ref>「顕正会の歴史と使命」P90-91</ref>。
**10月12日 正本堂落慶法要。池田は聖教新聞(10月3日付)掲載の訂正文に反し、参列した全学会員に対し、副会長・[[福島源次郎]]を通して、「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」とのメッセージを伝えさせた<ref name=":8" /><ref>「顕正会の歴史と使命」P92~93</ref>。
*[[1973年]](昭和48年)
**5月 久々に総本山大石寺への登山を願い出たところ、宗務院の早瀬総監より、「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」との返事があった<ref name=":15">「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」(冨士大石寺顕正会)p408-410</ref>。