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それらの矢場が廃れた明治20年頃から、銘酒の酌売を看板にして5、6本のびんを縁起棚に飾り、その裏では数名の私娼を抱える店が流行しはじめた。明治25、26年頃から銘酒屋と書いた軒燈を掲げるようになった。
 
[[日清戦争]]後から[[日露戦争]]の頃にかけて、[[浅草公園]]五区(奥山地区)、[[浅草公園六区|公園六区]]、浅草千束町(現・[[浅草]]2丁目旧町名)に発展し、明治末から大正初期がその全盛期であった。
 
大正年間、官の黙許のもとに公然と営業した。大正6、7年、一時、[[警視庁 (内務省)|警視庁]]の撲滅方針によってほとんど撲滅されたかにみえたが、まもなく看板をはずして営業し、また表向きは造花屋、[[新聞縦覧所]]として営業し、客があれば他に案内して売春するなどして大正10年頃再び隆盛をみた。