「安宅信康」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 安宅信康
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] ‐ [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])
| 死没 = [[天正]]6年([[1578年]])
| 改名 = 甚太郎(通称)
| 別名 = 通称:甚太郎
| 戒名諡号 =
| 墓所神号 =
| 官位戒名 =
| 幕府霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[織田信長]]
| 藩 =
| 氏族 = [[安宅氏]]
| 父母 = 父:[[安宅冬康]]
| 兄弟 = '''信康'''、[[安宅清康|清康]]、神太郎
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
 
'''安宅 信康'''(あたぎ のぶやす)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。
 
== 略歴 ==
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])、[[三好長慶]]の弟・[[安宅冬康]]の長男として生まれる。[[永禄]]6年([[1564年]])、父が長慶に殺されたため、[[家督]]を継いで[[淡路国|淡路]]水軍の総指揮官となる。
 
[[織田信長]]上洛後、[[信長包囲網]]が敷かれると[[石山本願寺]]と結んで[[織田氏]]と敵対したが、[[元亀]]3年([[1572年]])に[[足利義昭]]および信長に降伏してその臣下となった。義昭と信長の手切れ後は織田水軍の一員となり、石山本願寺を支援する[[毛利氏]]の誘いを拒否して、[[天正]]5年([[1577年]])には[[木津川口の戦い]]において[[毛利水軍]]と戦った。
 
[[天正]]6年([[1578年]])に死去。享年30。後を弟[[安宅清康|清康]]が継いだ。
 
ただし、一次史料から判明するのは、冬康の没後に嫡男の「神太郎○康」が継ぎ、その後を冬康の兄[[三好実休]]の三男「神五郎某」が継承したという事実のみである<ref>天野忠幸「三好一族の人名比定について」(初出:天野『戦国期三好政権の研究(初版))』(清文堂、2010年)/改訂所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1)</ref>。神太郎・神五郎の実名が信康・清康であった可能性もあるが、それを裏付ける史料は存在せず、信康・清康兄弟の実在性も不明である。
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== 脚注 ==
<references/>
 
== 関連項目 ==
*[[三好政権]]