「日常言語学派」の版間の差分

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== 歴史 ==
 
初期の分析哲学では日常言語に対してあまり肯定的な見解を持っていなかった。[[バートランド・ラッセル]]は哲学的にあまり重要ではないものとして言語を排除しがちであり、とくに日常言語については混乱しすぎていて形而上学的・認識論的問題を解決する助けにはならないものであると考えて排除しがちであった。[[ゴットロープ・フレーゲ]]、[[ウィーン学団]](特に[[ルドルフ・カルナップ]])、初期のヴィトゲンシュタイン、それに[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン]] 、これら皆、とくに近代的論理学の力を使うことで言語を改良しようとしていた。ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で示した見方は多かれ少なかれラッセルの、言語は、はっきりさせるために、世界を精確に表現するために、また私たちが哲学的問題をよりよく取り扱えるために改良されるべきだという考え方に同意する物であった。
 
これと対照的に、後期ヴィトゲンシュタインは、彼の責務は言葉を形而上学的な領域から日常的な用法の領域へと取り返すことだとした<ref>''Philosophical Investigations'', §116, trans. G. E. M. Anscombe, (New York: MacMillan, 1953)</ref>。この圧倒的な変化によって彼が1930年代に執筆した未公刊の作品では日常言語はそれ自体として「悪い」ところは何もなく、多くの伝統的な哲学的問題は言語や関連する主題に対する誤解によってもたらされたまやかしだという考えが中心に据えられた。この考えの前半は以前の分析哲学の―ほぼ間違いなく、以前のすべての哲学の―アプローチの否定を導いた。後半は、哲学的問題を解決するよりもむしろ哲学的問題の現れを「解消」するために言語をその日常的な用例から注意深く観察することでそれに取って代わろうとすることを導いた。初め、日常言語学派は(言語的哲学派とも呼ばれていたが)分析哲学の拡張もしくは代替だとみなされていた。今日では「分析哲学」と言う言葉は標準化された意味で使われ、日常言語学派は論理実証主義に後続し、現在続いている分析哲学のまだ名前のついていない段階に先行する、分析哲学の流れの一段階であるとみなされている。{{Citation needed|date=November 2009}}.