「ボーンスレー家 (ナーグプル)」の版間の差分

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また、宰相[[マーダヴ・ラーオ]]が[[ニザーム王国]]と戦っている間、[[ジャーノージー・ボーンスレー]]は王族ボーンスレー家の出身であることを理由に、マラーター王を公然と称した。そのため、マーダヴ・ラーオはマラーター王権を無視したこの行為を許さず、[[1763年]][[3月]]から2年間にわたりジャーノージー・ボーンスレーの支配する[[ナーグプル]]へ遠征軍を送り、征伐されることとなった。
 
1772年5月、ジャーノージーの死後、弟のマードージーが当主位を継承した<ref>[http://members.iinet.net.au/~royalty/ips/n/nagpur.html Nagpur]</ref> <ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref>。だが、下の弟サバージーがこれを認めず、当主位が両者の間で争われることとなった<ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref>。
 
 
[[1775年]][[1月]]、マードージーはサバージーを[[パーンチガーオンの戦い]]で破り、その当主位を確固たるものとした<ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref><ref>[http://members.iinet.net.au/~royalty/ips/n/nagpur.html Nagpur]</ref>
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そののち、1818年1月6日に彼はイギリスと講和条約(軍事保護条約)を結び、ボーンスレー家はイギリ従属化の藩王国となった(ナーグプル藩王国)<ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref>。
 
同年[[3月15日]]、マードージーはイギリスに逮捕され、6月にイギリスは新たにパラソージーの甥ラグージー・ボーンスレー3世を擁立し、これを当主および藩王とした<ref>[http://nagpur.nic.in/gazetteer/gaz1966/final_gazettee/his1.html Nagpur District Gazetteer]</ref>。
 
[[1853年]][[12月11日]]、ラグージーは息子なくして死亡した。イギリスは「[[失権の原理]]」によるナーグプル藩王国の併合を検討し、時に藩王国併合策を推し進めていたインド総督[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルフージー]]はこれを強く主張した。
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==脚注==
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==参考文献==