「カタルーニャ君主国」の版間の差分

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987年、バルセロナ伯ボレイ2世は[[ユーグ・カペー]]を[[西フランク王国|(西)フランク]]王と承認するのを拒否し、これによってバルセロナ伯はフランク王国のくびきから脱した。1137年、バルセロナ伯[[ラモン・バランゲー4世]]はアラゴン女王[[ペトロニラ (アラゴン女王)|ペトロニラ(パルネリャ)]]と結婚、アラゴン王国との[[同君連合]]による[[アラゴン連合王国]]が成立した。
 
1258年の[[コルベイユ条約 (1258年)|コルベイユ条約]]締結までは、フランス王は公式にカタルーニャ君主国及びアラゴン王国への封建的宗主権を放棄しなかった。この条約は、フランス支配からアラゴン人の支配への合法な過渡期の中で、カタルーニャを事実上の独立国家へと転換させたものである。これは歴史的な不平等も解消した。アラゴン王国の一部として、カタルーニャは大きな海事力を持つようになり、[[バレンシア王国|バレンシア]]、[[バレアレス諸島]]、[[サルデーニャ|サルデーニャ島]]や[[シチリア|シチリア島]]までの貿易や征服の拡大が進んだ。
 
1265年、[[バルセロナ]]における市議会として百人議会([[:en:Consell de Cent|en]]、クンセイ・ダ・サン)が誕生した。議員定数100人と決められていたことからこの名がついた議会は、カタルーニャにおける地方自治の象徴であった。