「チキータ・ブランド」の版間の差分

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'''チキータ・ブランド'''は[[アメリカ合衆国]]の[[企業]]。かつての社名は'''ユナイテッド・フルーツ'''(英語:United Fruit Company、略称:UFCO)。[[第三世界]]諸国の[[プランテーション]]で栽培させた[[熱帯果樹|トロピカルフルーツ]](主に[[バナナ]])をアメリカ合衆国やヨーロッパで販売した。1899年、合併により創業。1984年に現社名に変更。[[ボストン]][[閨閥]]とヨーロッパのそれが根深い利権を持っている。
 
==東キューバの支配者==
==設立==
[[File:Henry Meiggs 2.jpeg|right|150px|ヘンリー・メイグス]]
1871年に{{仮リンク|ヘンリー・メイグス|en|Henry Meiggs}}が[[コスタリカ]]政府と首都[[サンホセ (コスタリカ)|サン・ホセ]]からカリブ海の港町[[リモン]]までの鉄道建設の契約を結び、彼の甥の{{仮リンク|マイナー・C・キース|en|Minor Cooper Keith}}に事業を手伝わせた。1873年、労働者向けの安い食料として鉄道沿いにバナナの栽培が始められた。1877年にメイグスが亡くなるとキースが跡を継ぎ鉄道完成後は非常に低い賃金で労働者にバナナを栽培させて母国アメリカ合衆国で販売しようと考えた。数年後には[[グアテマラ]]の国土の大部分を獲得した。
 
[[File:Andrew W Preston ca1894 BostonFruitCo.png|right|150px|thumb|アンドリュー・ブレストン]]
[[第二次キューバ独立戦争]]で富豪デュモア家のバナナ・プランテーションが破壊された。そこへユナイテッド・フルーツが、1899年にキースのバナナ取引会社と{{仮リンク|アンドリュー・プレストン|en|Andrew Preston}}の{{仮リンク|ボストン・フルーツ・カンパニー|en|Boston Fruit Company}}の合併で設立された。社長にはプレストン、副社長にキースが就任した。会社は20世紀初めから半ばにかけて[[中央アメリカ]][[コロンビア]][[エクアドル]][[西インド諸島]]などの広大な地域、流通を支配した。
 
設立後すぐ[[キューバ]]へ進出し、20年とたたぬうちに、バネス湾とニペ湾を取り囲む総計8200カバレリアの土地を手に入れ、両湾にそれぞれ砂糖セントラルを建設し各エリアをコントロールした<ref>1カバレリア=13.4ヘクタール</ref>。地主コロノに土地を手放させるため、ユナイテド・フルーツは自社小作人ヘの砂糖きび割り当て量よりも地主ヘのそれを少なくした。さらに、会社の所有地の境界線を最大限に活かして地主の土地を巧妙に取り囲み、私有鉄道路線も利用して地主が他のセントラルに砂糖きびを売れなくした。バネス・ニペ各湾地域は独立して垂直構造をとる複合企業として機能し、どちらもボストンに本部を構えた。砂糖の売却はアメリカ合衆国の本部で行なうため、両区は必要経費だけを受け取ることになっていた。その予算は、ボストン・ファースト・ナショナル銀行(2005年から[[バンカメ]])によって綿密に算出された。一方では、1902年に本国占領軍が定めた外国人労働者を排除する法令を覆そうと折衝を重ね、1913年にキューバ政府がジャマイカからのブラセーロ導入を例外的に許容、1917年8月に導入を全面的に認めた。1920年の経済危機のために、1921年8月にはブラセーロの本国送還令が出され、1922年5月に導入が再び禁止された。しかし、毎年政府の特別許可を取れば導入できたので、ユナイテド・フルーツは1923年からこの方式で労働力を得るようになった。[[世界恐慌]]の背景となった合衆国の[[投資信託]]ブームに乗って、ユナイテッド・フルーツは砂糖セントラルの設備を更新した。恐慌は雇用を通じてキューバ人を支配する契機となった。<ref>阿部久子 [http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/6234 「ユナイテド・フルーツ会社: キューバにおける帝国主義支配の一事例」 ハバナ, 1976年](書評) 一橋研究8巻2号 1983年; 原書 Jorge Pérez, etc., eds., ''United Fruit Company: un caso del dominio imperialista en Cuba'', Editorial de Ciencias Sociales, 1976</ref>
 
==コロンビアでの活動==