「チキータ・ブランド」の版間の差分

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[[第二次キューバ独立戦争]]で富豪デュモア家のバナナ・プランテーションが破壊された。そこへユナイテッド・フルーツが、1899年にキースのバナナ取引会社と{{仮リンク|アンドリュー・プレストン|en|Andrew Preston}}の{{仮リンク|ボストン・フルーツ・カンパニー|en|Boston Fruit Company}}の合併で設立された。社長にはプレストン、副社長にキースが就任した。会社は20世紀初めから半ばにかけて[[中央アメリカ]]・[[コロンビア]]・[[エクアドル]]・[[西インド諸島]]などを支配した。
 
設立後すぐ[[キューバ]]へ進出し、20年とたたぬうちに、バネス湾とニペ湾を取り囲む総計8200カバレリアの土地を手に入れ、両湾にそれぞれ砂糖セントラルを建設し各エリアをコントロールした<ref>1カバレリア=13.4ヘクタール</ref>。地主コロノに土地を手放させるため、ユナイテド・フルーツは自社小作人ヘの砂糖きび割り当て量よりも地主ヘのそれを少なくした。さらに、会社の所有地の境界線を最大限に活かして地主の土地を巧妙に取り囲み、私有鉄道路線も利用して地主が他のセントラルに砂糖きびを売れなくした。バネス・ニペ各湾地域は独立して垂直構造をとる複合企業として機能し、どちらもボストンに本部を構えた。砂糖の売却はアメリカ合衆国の本部で行なうため、両区は必要経費だけを受け取ることになっていた。その予算は、ボストン・ファースト・ナショナル銀行(2005年から[[バンカメ]])によって綿密に算出された。一方では、1902年に本国占領軍が定めた外国人労働者を排除する法令を覆そうと折衝を重ね、1913年にキューバ政府がジャマイカからのブラセーロ導入を例外的に許容、1917年8月に導入を全面的に認めた。1920年の経済危機のために、1921年8月にはブラセーロの本国送還令が出され、1922年5月に導入が再び禁止された。しかし、毎年政府の特別許可を取れば導入できたので、ユナイテド・フルーツは1923年からこの方式で労働力を得るようになった。[[世界恐慌]]の背景となった合衆国の[[投資信託]]ブームに乗って、ユナイテッド・フルーツは砂糖セントラルの設備を更新した。恐慌は雇用を通じてキューバ人を支配する契機となった。<ref>阿部久子 [http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/6234 「ユナイテド・フルーツ会社: キューバにおける帝国主義支配の一事例」 ハバナ, 1976年](書評) 一橋研究8巻2号 1983年; 原書 Jorge Pérez, etc., eds., ''United Fruit Company: un caso del dominio imperialista en Cuba'', Editorial de Ciencias Sociales, 1976</ref>
 
==キューバ危機へ向かって==
==コロンビアでの活動==
1928年11月12日、コロンビアの[[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]近郊の農場で労働者の[[ストライキ]]が勃発、12月6日[[コロンビア軍]]の将軍、[[w:Cortés Vargas|Cortés Vargas]]によって鎮圧されたがこの時犠牲者が多数出た({{仮リンク|バナナ労働者虐殺事件|en|Banana massacre}})。犠牲者数については47人から2000人まで諸説ある。この事件に対しては[[ホルヘ・エリエセル・ガイタン]]議員がユナイテッド・フルーツ社のために軍が行動したと非難した。一方、軍は[[共産主義革命]]対策だと主張している。
 
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[[1948年]]にボゴタでの[[米州機構|OAS]]会議中、当選確実といわれた選挙直前に[[コロンビア]]自由党員だった[[ホルヘ・エリエセル・ガイタン]]が暗殺されたことをきっかけに、激昂した自由党派の市民と保守党派の市民が衝突し、{{仮リンク|ボゴタ暴動|en|Bogotazo}}(ボゴタソ)が発生した。この一連の暴動により、コロンビアは「{{仮リンク|ラ・ビオレンシア|en|La Violencia|label=暴力の時代}}」([[1946年]] - [[1950年]])を迎え、死者数は全て併せると20万人にも及ぶと推測される。
 
[[中南米]]、特に当時「[[バナナ共和国]]」と呼ばれた[[グアテマラ]]などでも、ユナイテッド・フルーツがバナナや[[パイナップル]]などの果物取引において大きな影響与えコントロールした。また政治活動も活発であり、[[1954年]]には[[アメリカ中央情報局|CIA]]と組みグアテマラの[[ハコボ・アルベンス・グスマン]]政権の転覆([[PBSUCCESS作戦]])に成功した。アルベンスは選挙後に公約どおり大規模な[[農地改革]]を実行した。本国の従業員に対する厚遇は有名とされ、社屋はもちろん専門の病院や学校を無料で開放し、給料も高かったと言うが、アルベンス政権以前のグアテマラでは全人口の3%が国土の70%を所有しており、著しい貧富の格差があった。しかしユナイテッド・フルーツ社は農園経営においてグアテマラの超富裕層と結託しており、ユナイテッド・フルーツ社とCIAは[[既得権益]]を失うことを恐れてアルベンスを過剰に親ソ連派として攻撃、失脚させた。<ref>Robert B Durham, ''False Flags, Covert Operations, & Propaganda'', Lulu.com, 2014, pp.278-295.</ref>
==グアテマラでの活動==
 
[[中南米]]、特に当時「[[バナナ共和国]]」と呼ばれた[[グアテマラ]]などでバナナや[[パイナップル]]などの果物の取引において大きな影響を与えた。また政治活動も活発であり、[[1954年]]には[[アメリカ中央情報局|CIA]]と組みグアテマラの[[ハコボ・アルベンス・グスマン]]政権の転覆([[PBSUCCESS作戦]])に成功した。アルベンスは選挙後に公約どおり大規模な[[農地改革]]を実行した。本国の従業員に対する厚遇は有名とされ、社屋はもちろん専門の病院や学校を無料で開放し、給料も高かったと言うが、アルベンス政権以前のグアテマラでは全人口の3%が国土の70%を所有しており、著しい貧富の格差があった。しかしユナイテッド・フルーツ社は農園経営においてグアテマラの超富裕層と結託しており、ユナイテッド・フルーツ社とCIAは[[既得権益]]を失うことを恐れてアルベンスを過剰に親ソ連派として攻撃、失脚させた。<ref>Robert B Durham, ''False Flags, Covert Operations, & Propaganda'', Lulu.com, 2014, pp.278-295.</ref>
1962年、[[キューバ危機]]が世界を震撼させた。
 
== 腐ったバナナ ==