「アンドルー・ボナー・ロー」の版間の差分

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代わってボナー・ローが保守党党首に選出された。1822年[[10月23日]]午後5時30分には国王ジョージ5世より組閣の大命を受けた<ref name="マッ(1965)43">[[#マッ(1965)|マッケンジー(1965)]] p.43</ref>。内閣成立直後に[[1922年イギリス総選挙|解散総選挙]]を行って安定多数を確保した<ref name="マッ(1965)45">[[#マッ(1965)|マッケンジー(1965)]] p.45</ref>。しかし有力保守党議員の多くがチェンバレンに従っていたため、あまり強力な内閣は作れなかった<ref name="ブレ(1979)247">[[#ブレ(1979)|ブレイク(1979)]] p.247</ref>。
 
首相在任中、ボナー・ローの体調は悪化を続け、[[18231923年]]4月末には医師の勧めで航海の旅に出た(この間は[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン卿]]を首相代理、[[スタンリー・ボールドウィン]]を庶民院院内総務とした)。しかし帰国後も体調は回復しなかった<ref>[[#マッ(1965)|マッケンジー(1965)]] p.45-47</ref>。1923年5月に[[咽頭癌]]との診断を受けたため<ref name="ブレ(1979)247">[[#ブレ(1979)|ブレイク(1979)]] p.247</ref>、5月20日に首相職を辞することになった<ref name="マッ(1965)47">[[#マッ(1965)|マッケンジー(1965)]] p.47</ref>。在職わずか7ヶ月の首相であった<ref name="ブレ(1979)247">[[#ブレ(1979)|ブレイク(1979)]] p.247</ref>。
 
退任から間もない1923年10月30日に死去した<ref name="thepeerage.com"/>。