「上杉清方」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 上杉清方
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[室町時代]]中期
| 生誕 = [[応永]]19年([[1412年]])?
| 死没 = [[文安]]元年([[1444年]])
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
|戒名=▼
| 神号 =
▲| 戒名 =
|官位=[[兵庫寮|兵庫]]頭▼
| 霊名 =
| 墓所 = [[新潟県]][[柏崎市]][[長泉寺 (柏崎市)|長泉寺]]
| 幕府 = [[室町幕府]] [[関東管領]]? [[武蔵国|武蔵]][[守護]]?
|父母=父:[[上杉房方]]▼
| 主君 = [[足利義政]]
|兄弟=[[上杉朝方|朝方]]、[[上杉頼方|頼方]]、[[上杉憲実|憲実]]、[[上杉重方|重方]]、'''清方'''▼
| 藩 =
|妻=▼
|
▲| 父母 = 父:[[上杉房方]]
|特記事項=▼
▲| 兄弟 = [[上杉朝方|朝方]]、[[上杉頼方|頼方]]、[[上杉憲実|憲実]]、[[上杉重方|重方]]、'''清方'''
▲| 妻 =
| 子 = [[上杉定顕|定顕]]、'''[[上杉房定|房定]]'''、[[上杉房実|房実]]
▲| 特記事項 =
}}
'''上杉 清方'''(うえすぎ きよまさ/きよかた)は[[室町時代]]中期の武将。[[上条上杉家]]の祖。[[上杉房方]]の末子。[[越後国|越後]][[上条城]]城主。実兄の[[上杉憲実]]が隠棲後、[[山内上杉家]]当主を兼ねた。▼
▲'''上杉 清方'''(うえすぎ きよまさ/きよかた)は、[[室町時代]]中期の[[武将]]。[[上条上杉家]]の祖
また、[[関東管領]]・[[武蔵国|武蔵]][[守護]]も兼ねていた可能性がある。▼
== 生涯 ==
[[上杉房方]]の末子として誕生。越後守護職は兄の[[上杉朝方|朝方]]・[[上杉頼方|頼方]]が継承し、三兄
[[永享]]元年([[1428年]])、4代[[鎌倉公方]]・[[足利持氏]]が越後[[守護代]]・[[長尾邦景]]の取り込みを図り、邦景から通報を受けた8代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義教]]は清方に対して邦景に協力して持氏に対抗するように命じた[[御教書]]を下している<ref>『満済准后日記』正長2年(永享元年)2月23日条</ref>。永享9年([[1437年]])には
それから間もなく死去した。没年については、『[[続本朝通鑑]]』は文安3年([[1446年]])と伝えるが、文安元年([[1444年]])8月に隠遁して所領を全て清方に譲った筈の憲実が次男・竜春(後の[[上杉房顕|房顕]])の為に[[譲状]]を作成している事や、清方の菩提寺である[[長泉寺 (柏崎市)|長泉寺]]が文安2年([[1445年]])に創建されている事から、文安元年に清方が死去して山内上杉家の家督は再び空白となっていたとみられている。また、死因については[[越中国|越中]]において自刃したという説がある(『上杉略譜』)が、それを裏付ける根拠はない。
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== 脚注 ==
<references/>
== 出典 ==
*黒田基樹「上杉清方の基礎的研究」(黒田編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一一巻 関東管領上杉氏』(戒光祥出版、2013年)ISBN 978-4-86403-084-7)
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[[Category:上条上杉氏|きよまさ]]
[[Category:山内上杉氏|きよまさ]]
[[Category:室町
[[Category:越後国の人物]]
[[Category:1412年生]]
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