「通化事件」の版間の差分

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[[1945年]][[8月20日]]、[[通化高等女学校]]に[[PPSh-41|短機関銃]]を持ったアジア系のソビエト兵2名が[[ジープ]]で乗り付けると校内に侵入し、女生徒たちが[[バレーボール]]の練習を終えて校舎に戻ろうとすると最後尾の女生徒の腕を掴んで引きずり出そうとした<ref name="Kitano_204-205">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、204~205頁。</ref>。[[古荘康光]]校長と[[村田研次]]教諭が止めに入ると銃を乱射し始めたため、20代の女性教師が自ら身代わりとなって連行された<ref name="Kitano_205-208">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、205~208頁。</ref>。連絡を受けた通化守備隊の[[中村一夫 (陸軍大尉)|中村一夫]]大尉は直ちに兵士40名を乗せたトラック2台とともに駆けつけ、男性教師たちと共同でソビエト兵のジープを捜索したが発見できなかった<ref name="Kitano_210-211">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、210~211頁。</ref>。女性教師は深夜に解放されたが、その晩自殺した<ref name="Kitano_211-212">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、211~212頁。</ref>。翌日、ソビエト兵は再び女学校に乱入すると女生徒か昨日の女性と金品を出すよう要求した<ref name="Kitano_213-214">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、213~214頁。</ref>。村田教師が「女性は自殺した」と述べると、他の女性を出すよう要求されたため、隠し持っていた拳銃で2人を射殺した<ref name="Kitano_214">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、214頁。</ref>。教師たちはソビエト兵を埋葬して線香と花を手向けると、菅原通化省公署次長と中村大尉に連絡し、寄宿生を連れて通化を脱出した<ref name="Kitano_215-217">[[#北野 (1992)|北野 (1992)]]、215~217頁。</ref>。[[1945年]][[8月24日]]<ref name="Matsubara2003-94">[[#松原 (2003)|松原 (2003)]]、94頁。</ref>{{#tag:ref|『少年は見た 通化事件の真実』は8月28日、『秘録大東亜戦史満州編下巻』は8月23日としている。その出典は明記されていないが『通化事件”関東軍の反乱”と参謀藤田実彦の最期』では[[大村卓一]]の日記よりとあるのでそちらを採用| group="注釈"}}、ソビエト軍中佐以下将校20名、兵200名からなる[[赤軍|ソビエト軍]]が[[通化]]に特別列車で進駐<ref name="Yamada1953-22">[[#山田 (1953)|山田 (1953)]]、22頁。</ref><ref name="Matsubara2003-94"/>{{#tag:ref|[[進駐軍]]の人数については『秘録大東亜戦史満州編下巻』は500名としている。その出典は明記されていないが『通化事件”関東軍の反乱”と参謀藤田実彦の最期』では[[大村卓一]]の日記よりとあるのでそちらを採用| group="注釈"}}、部隊の多くは油や泥にまみれた[[軍服]]、[[軍靴]]姿でその軍靴の多くは[[関東軍]]のものであった<ref name="Yamada1953-22"/>。さらに、半数は兵士の関東軍の[[三八式歩兵銃]]などの装備であり、日本軍では採用されないほど貧弱な体格の兵も多く、出迎えた人々にはみすぼらしく貧弱に映った<ref name="Yamada1953-22"/>。ソビエト軍は司令部を[[満州中央銀行]]通化支店、[[日本興業銀行]]通化支店を経て竜泉ホテル{{refnest|group="注釈"|竜泉ホテルは[[ベスト電器]]創業者[[北田光男]]の父が経営していた<ref name="Kitada">[http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20120717/234472/?ST=pc 曠野に眠る亡き娘 豪放と、節制と ベスト電器・北田光男伝] [[日経ビジネス]] 2012年7月18日</ref>。}}に設置した<ref name="Yamada1953-25">[[#山田 (1953)|山田 (1953)]]、25頁。</ref>。また、ソビエト軍によって武装解除された[[関東軍]]の兵器を譲渡された中国共産党軍も同市に進駐した。
 
占領下の日本人はソビエト軍による[[強姦]]・[[暴行]]・[[略奪]]事件などにも脅かされていた。この段階では[[憲兵 (日本軍)|日本軍憲兵隊]]はシベリアに連行されずに[[治安]]活動を行っており、ソビエト軍の蛮行を傍観していたわけではなかった。原憲兵[[准尉]]はソビエト兵が女性を襲っているとの通報を受け、現場に駆け付けると、白昼の路上でソビエト兵が日本女性を裸にして強姦していたため女性を救おうと制止したが、ソビエト兵が行為を止めないため、やむなく[[軍刀]]で処断した。原准尉は直後に別のソビエト兵に射殺され、この事件以降は[[日本刀]]も没収の対象となった。ソビエト兵による日本女性への強姦は路傍、屋内をとわず頻発していた<ref name="Yamada1953-25"/>。女性は外出を避け、[[丸坊主]]に頭を刈る娘たちが多かった<ref name="Yamada1953-25"/>。日本人居留民会がソビエト軍司令部に苦衷を訴えると日本人女性を[[慰安婦]]として[[司令部]]に供出するよう命令が出されたため、居留民会は[[料亭]]で働く日本人女性たちに犠牲となるよう頼み込み慰安婦として供出した<ref name="Yamada1953-25-26">[[#山田 (1953)|山田 (1953)]]、25~26頁。</ref>。ソビエト軍司令部は女性たちが司令部に出頭すると素人娘でなければ認めないと要求したが、同行していた居留民会救済所長[[宮川梅一]]はこれを拒否し、後日ソビエト軍司令部も折れた<ref name="Yamada1953-26">[[#山田 (1953)|山田 (1953)]]、26頁。</ref>。日本人はソビエト軍進駐時にラジオを全て没収されたため、外部の情勢を知ることは不可能となった。また、中国共産党軍は日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後[[吉林市|吉林]]へ連行した<ref name="Yamada1953-28">[[#山田 (1953)|山田 (1953)]]、28頁。</ref>。
 
=== 中国共産党軍の単独進駐以降 ===