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[[郷挙里選|孝廉]]に推挙されたことがきっかけとなって[[劉璋]]に仕え、魚復県の[[県長]]・従事・帳下司馬を歴任した。[[許靖]]は益州に入ると、張裔を実務の才があって頭の回転が良い人物であると評価し、[[曹操]]軍の[[鍾ヨウ|鍾繇]]に比肩すると述べている。[[劉備]]が益州に侵攻すると、[[張飛]]軍と徳陽県の陌下(はくか)で戦ったが敗れている。
 
劉璋が降伏すると劉備に仕え、[[巴郡]][[太守]]・司金中郎将に任じられ、農具と武器の製造を司った。さらに建寧太守の正昂が現地の豪族に殺害されると、その後任として益州太守(永昌太守の説あり)になったが、[[雍ガイ|雍闓]]に捕らえられ[[呉 (三国)|呉]]に送られてしまった。後に[[トウ芝|鄧芝]]が呉との講和に赴いた際、[[蜀漢]]に帰還することを許されたが、もう既に58歳だったという。なお、呉の[[孫権]]は張裔がどのような性格の人物か把握していなかったため、返還の前に一度会談した。すると、孫権は張裔の性格をすっかり気に入ってしまったのか、追っ手を差し向けて連れ戻そうとした。このため、張裔は愚者の振りをしなかったことを後悔しつつ、船の速度を速め全速力で逃げ延びたという。
 
張裔は帰国すると早々に重用を受け、参軍・益州治中従事に任じられた上で、[[諸葛亮]]の傍らで軍務を執り仕切った。[[227年]]、諸葛亮が[[北伐]]のため[[漢中]]に駐屯した時には、射声[[校尉]]の地位にあり、さらに[[楊洪]]の反対を推しきった諸葛亮から留府長史を任された(楊洪伝)。また翌[[228年]]には、前線の諸葛亮の下へ事務の打ち合わせに赴いている。その際、数百人もの人が彼を見送ったという。