「叙任権闘争」の版間の差分

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'''叙任権闘争'''(じょにんけんとうそう、{{Lang-de-short|'''Investiturstreit'''}})とは中世初期において特に[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]](俗権)が[[ローマ教皇]](教権)との間で[[司教]]や[[修道院]]長の任命権(叙任権)をめぐって行った争いのこと。
 
== 背景 ==
西欧では古代末期以来、私領に建てられた聖堂([[私有教会制|私有教会]])や修道院が増えていったが、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権力が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは少なからぬ教会財産の管理権を握ることと直結していたので世俗権力にとっても重要であった。中世に入ると、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが頻発するようになっていった。
 
特に神聖ローマ帝国内では皇帝が司教たちの任命権を握って影響力を強くしていくことで、教皇選出においてまで影響力を持つに至った。しかし、俗権による叙任権のコントロールは[[シモニア]](聖職売買)や聖職者の堕落という事態を招く一因ともなった。
 
[[10世紀]]に[[ブルグント王国]]に創立された[[クリュニー修道院]]に対する俗権からの影響力を否定した改革運動や、俗権による叙任を否定した教皇[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]、聖職者の綱紀粛正をはかった教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]による教会改革は、教会に叙任権を取り戻そうという流れを生んでいった。ここに至って皇帝と教皇の間で叙任権をめぐる争いが行われるようになった。
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[[ファイル:Hugo-v-cluny heinrich-iv mathilde-v-tuszien cod-vat-lat-4922 1115ad.jpg|220px|right|thumb|'''カノッサの屈辱'''<br/>トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に、教皇へのとりなしを頼むハインリヒ4世(中央)]]
 
グレゴリウス7世は教皇権が皇帝権に対し優位にあることを主張し、[[1076年]]に神聖ローマ帝国皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]を破門した。それを受け、ドイツ諸侯たちは[[ザリエル朝]]のもとで王権・帝権の強化が進んだことに懸念を抱いていたこともあり、ハインリヒの帝位を否定する動きをみせた。こうして翌[[1077年]]、自らの政治的地位が危うくなることを恐れたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に贖罪した([[カノッサの屈辱]])。その後、勢力を立て直したハインリヒ4世は軍事力を行使しグレゴリウス7世をローマからの逃亡させるに至った。そして両者の死後においても、皇帝と教皇の争いは一進一退であり、何らかの妥協点を定めることは困難に見えた。
 
=== 「聖なる世界」「俗なる世界」 ===