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=== 征長軍の動き ===
7月23日、[[朝廷]]は幕府へ対して長州追討の勅命を発した。幕府は長州藩主[[毛利敬親]]と養嗣子の[[毛利元徳|定広]](後の元徳)に[[禁門の変]]を起こした責任を問い伏罪をさせるため、[[尾張藩]]・[[越前藩]]および西国諸藩よりから征長軍を編成した。動員された藩の数は最終的に35藩、総勢15万人とされる。[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]、諸藩の攻め口が定められ五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)よりから、[[萩城]]のある[[萩市|萩]]ではなく藩主父子のいる[[山口市|山口]]へ向かうと決定した。
 
征長総督は[[尾張藩]]の前々藩主である[[徳川慶勝]]([[8月7日 (旧暦)|7日]]に[[紀州藩]]主[[徳川茂承]]よりから変更)。副総督は[[越前藩]]主[[松平茂昭]]が任命された。総督は征長について将軍よりから全権委任をうけ征長軍に対する軍事指揮権を掌握する。
 
[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]、[[大坂城]]にて征長軍は軍議を開き、[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の[[11月18日 (旧暦)|18日]]に攻撃を開始すると決定した。広島の[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]]には総督府、豊前の[[小倉城]]には副総督府を置くことになった。将軍が最終的に長州藩へ処罰(公裁)するが、総督は長州藩への降伏条件の決定、征長軍の解兵時期について権限をもつ。幕府は朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主父子に謹慎を命じた。しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかについては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案を含めていくつかの案が出された。
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この時、征長軍に参加して萩口の先鋒を任されていた[[薩摩藩]]は独自の動きを見せた。[[福岡藩]]士の喜多岡勇平、薩摩藩士の[[高崎五六]](兵部)が[[9月30日 (旧暦)|9月30日]]に岩国新湊に入ると、[[岩国藩]]の[[吉川経幹]](監物)と薩摩藩は征長における交渉に入った。[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]、高崎は岩国へ宛てて、薩摩藩は長州藩のために尽力するが暴徒を処罰し、黒白を明らかとして、悔悟の念を明らかとするのが肝要である。また[[三条実美]]ら五卿の追放、時と場合によっては藩主父子が総督府の軍門に自ら出てくる必要があるが、まずは安心してよいという内容の手紙を送った。手紙には高崎は京都で留守番をするが大島吉之助([[西郷隆盛]])が征長軍で交渉を担当するため、遠からず岩国に入るかもしれないと書かれている。
 
[[10月24日 (旧暦)|24日]]、大坂において西郷は総督慶勝へ長州藩降伏のプロセスについて腹案を述べると、慶勝はその場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とし、西郷は征長軍全権を委任された参謀格となった。慶勝と西郷は総督府を幕府の統制下よりから離れさせ寛典論に基づく早期解兵路線へ「独走」させた。
 
[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]、征長総督の命令により親友の[[税所篤]](喜三左衛門)、[[吉井友実]](仁左衛門)を伴い岩国へ入った西郷は吉川経幹と会談。2日前に経幹は総督府へ禁門の変で上京した三家老([[国司親相]]、[[益田親施]]、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]])の切腹と四参謀([[宍戸真澂]]、[[竹内正兵衛]]、[[中村九郎 (長州藩士)|中村九郎]]、[[佐久間左兵衛]])の斬首、五卿([[三条実美]]、[[三条西季知]]、[[四条隆謌]]、[[東久世通禧]]、[[壬生基修]])の追放の降伏条件で開戦の開始を猶予するように請願していた。西郷との会談後、経幹は長州藩へむけて家老切腹、参謀斬首を催促をした。[[11月11日 (旧暦)|11日]]、[[徳山藩]]において国司親相と益田親施が、翌[[11月12日 (旧暦)|12日]]に岩国藩において福原元{{CP932フォント|僴}}が切腹。同日に四参謀も[[野山獄]]で斬首された。
 
[[11月16日 (旧暦)|16日]]、広島国泰寺において征長軍総督による三家老の首実検が行われた。征長側は総督名代の[[成瀬正肥]]、[[大目付]]の[[永井尚志]]、軍目付の[[戸川安愛]]。長州側は吉川経幹、志道安房。参謀の[[辻将曹]]と西郷は次室に控えていた。『征長出陣記』は、永井は藩主父子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)、萩の開城を通告した。経幹は顔面蒼白となり「この上はよんどころなく死守」と防長士民は徹底抗戦すると回答。永井よりから諮問された西郷は永井案の再考を提案したと記録されている。[[11月18日 (旧暦)|18日]]、征長軍から経幹へ「藩主父子からの謝罪文書の提出、五卿と附属の脱藩浪士の始末、山口城破却」の命令が出された。総督府の降伏条件は寛大として副総督府のある小倉にいた松平茂昭や越前藩、九州諸藩よりから不満があがったため西郷は[[11月21日 (旧暦)|21日]]の晩に広島を発して[[11月23日 (旧暦)|23日]]の昼に小倉に入り説得を行った。
 
[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]、長州藩よりから総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出された。残りの降伏条件は五卿と山口城だが、山口は城ではなく館であり形式的な条件([[12月19日 (旧暦)|19日]]、巡検使の[[石川光晃]]、戸川安愛が巡視した際も指摘はなかった)で、残っているのは五卿問題だけとなった。これに先立つ4日前の[[12月1日 (旧暦)|1日]]、福岡藩の越智小平太、真藤登、喜多岡(北岡)勇平が[[長府]](現在の[[下関市]]長府)の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かるという申し入れをした。[[12月3日 (旧暦)|3日]]に福岡藩の[[月形洗蔵]]は三条実美と面会したが、三条は勅命であれば進退はやむを得ないが附属する諸隊及び脱藩浪士は反対し騒擾が起きる可能性があると語った。
 
諸隊とは[[奇兵隊]]、[[遊撃隊]]、[[八幡隊]]、[[御楯隊]]、[[南園隊]]など藩の正規兵と異なる軍隊であり、政治集団、党派としての意味合いを兼ねていた。その指揮系統は軍隊だが、意思決定は幹部よりから構成される諸隊会議所が合議の上で決める仕組みである。
 
[[12月11日 (旧暦)|11日]]、西郷は[[馬関海峡]]を越えて長府に入り運動中の月形らと面会。当日に小倉へ戻った。西郷の渡海により長州藩内の紛争が解決次第、五卿は筑前へ移転すると決定。降伏条件の道筋がつき征長軍は解兵へ歩みをすすめた。長州藩内の紛争とは長府の諸隊と萩藩庁の対立であり、萩藩庁と小倉の征長軍(その数は数万とされた)に挟まれた諸隊のために、奇兵隊3代目総督の[[赤禰武人]]は周旋に動いていた。これに対して[[12月13日 (旧暦)|13日]]夜、奇兵隊初代総督[[高杉晋作]]は長府の諸隊長官に対して赤禰の融和策を非難し、即時挙兵を主張したが応じる者はいなかった。この席で高杉は市民兵の諸隊に向かって「赤禰武人は大島の土百姓である」と発言したと記録されている。
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[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]、国司親相、益田親施、福原元{{CP932フォント|僴}}の三家老に続いて[[京都]]へ向かった毛利定広が[[讃岐国|讃岐]][[多度津町|多度津]]で[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]に勃発した[[禁門の変]]の敗戦を聞き山口へ向けて引き返した。[[7月27日 (旧暦)|27日]]、三田尻(現在の[[防府市]])において藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議、[[7月30日 (旧暦)|30日]]、毛利敬親は山口に戻り人心を落ち着かせて吉川経幹に対外的な周旋を頼んだ。また山口政庁は三家老の職を解き禁門の変の顛末を誰問の上で徳山藩に預けて謹慎させた。
 
[[八月十八日の政変]]の後と同様に藩政を誤らせた[[長州正義派|正義派]]へ[[俗論党]]は反発を強めた。前回は萩から山口へ[[椋梨藤太]]、[[村岡伊右衛門]]ら俗論派が出てきて[[毛利登人]]、[[前田孫右衛門]]、[[周布政之助]]ら正義派を免職させたが、奇兵隊という武力を背景とした高杉晋作がひっくり返して、逆に[[坪井九右衛門]]は切腹させられた。今回は俗論党の影響下にある先鋒隊の壮士たちが続々と山口へ入った。[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]に吉川経幹が山口に入ると[[9月8日 (旧暦)|8日]]に奇兵隊を含む諸隊は経幹と接見、上申書を奉じ幕府への武備恭順を迫り、これに対抗して[[9月20日 (旧暦)|20日]]に萩藩士100名以上が山口に上った。山口藩庁は暴発を避けるため城代の毛利将監、目付の村尾治兵衛よりから慰撫しようとしたが果たせず[[9月22日 (旧暦)|22日]]、萩側は経幹へ幕府への謝罪恭順を通すように迫った。経幹はこれを慰撫して藩内の騒動を収め、同日に敬親へ告げその場で城代と目付は経幹の労に謝したが、山口側は萩側の圧力を無視できなくなった。
 
[[9月24日 (旧暦)|24日]]、[[井上馨]](聞多)は藩主父子へ[[君前会議]]において藩是を定めることを提言。井上は萩の強硬派はいざとなれば自らが代官をつとめる[[小郡町|小郡]]の民兵を使って片付ける目算を立てていた。[[9月25日 (旧暦)|25日]]、[[山口政事堂]]で君前会議が開かれ井上は熱弁をふるい、会議の最後に敬親は武備恭順を国是とすると言明して終わった。しかし同日夜、井上は政事堂よりからの帰り道に袖解橋の手前で刺客に襲われ重傷を負い、周布も自殺、30日に加判の[[清水親知]](清太郎)も知行地に戻り閉居し正義派は大打撃を受けた。同日、藩主父子の萩城帰還が決定した。
 
[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]に毛利登人、[[大和国之助]]、前田孫右衛門、[[渡辺内蔵太]]は謹慎。[[10月13日 (旧暦)|13日]]に[[宍戸たまき|山縣半蔵]]、[[楫取素彦|小田村素太郎]](後の楫取素彦)、[[寺内暢蔵]]は罷免。[[10月17日 (旧暦)|17日]]に高杉晋作は政務役を罷免され24日に萩よりから脱走、[[10月29日 (旧暦)|29日]]に下関に入り[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]に九州へ入り諸藩連合を説いたが失敗。福岡郊外の平尾山荘へ潜伏した。[[10月19日 (旧暦)|19日]]に清水は加判を罷免・謹慎となり正義派は軒並み倒れ、24日に俗論党の首領である椋梨籐太が政務役に任命され俗論派政権が誕生した。[[11月15日 (旧暦)|15日]]、奇兵隊を含む諸隊は山口よりから五卿を奉じて長府に入った。その総員はおよそ750名だった。
 
[[11月22日 (旧暦)|22日]]、萩政庁は下関へ諸隊鎮撫掛の[[杉徳輔]]を、23日には[[粟屋親忠]](帯刀)を送り込み、粟屋は長府藩に諸隊鎮撫を依託した。[[11月25日 (旧暦)|25日]]、[[長府藩]]の藩主である[[毛利元周]]は謝罪恭順を徹底させるため諸隊へ藩主父子への嘆願を封じさせた。諸隊は萩藩庁へ武備恭順、正義派の登用を嘆願したが無視され続けた。
 
=== 元治の内乱と征長軍の解兵 ===
[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]、奇兵隊総督の赤禰武人は萩よりから長府へ帰り、萩政庁と諸隊の調和により事態を転回させる調和論<正邪混和説>を説いたが諸隊の多くは賛同せず、同日、奇兵隊の実権を握っていた軍監の[[山縣有朋]]は萩政庁へ反対の意見書を提出した。11月25日、九州よりから下関へ帰った高杉は長府で即時挙兵を説いたが、山縣を含めた諸隊は同調しなかった。12月13日夜、高杉は諸隊の長官を説得したが、忠誠公勤皇事蹟には「悲憤慷慨の言を吐き、或は怒り、或いは泣て、長官等を感動せしめんと力めましたけれども、長官等は高杉の気焔に圧倒せられたるのみにて、誰れ一人として」決起する様子は見えなかったとある。
 
[[12月15日 (旧暦)|15日]]深夜、大雪の中、長府に集まった高杉と[[力士隊]](総督は[[伊藤博文]](俊輔))、遊撃隊(総督は[[河瀬真孝]](石川小五郎))は功山寺に赴いて五卿に面会、その後下関に入った。[[功山寺挙兵]]および元治の内乱の始まりである。
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[[12月28日 (旧暦)|28日]]、下関の遊撃隊討伐を目的として萩を上発した討伐軍の先鋒は[[秋吉台]]の北東の盆地の絵堂に入った。台地南西の伊佐にいた諸隊は、年が明けた元治2年(1865年、慶応に改元)[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]深夜に山道を越えて絵堂に入り討伐軍を襲撃、朝までに同地を占領した。諸隊は数で劣勢のため絵堂は放棄して南進、[[大田川]]流域の大田(秋吉台の南東)に出た。討伐軍は秋吉台と[[権現山]]の間を通じる本道の大田街道、権現山東縁を流れる大田川沿いの谷間道(川上口)を南下すると予測した諸隊は本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣は御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道と川上口が合流する大田勘場(役所)に本陣を置きV路上に陣地を形成した。
 
[[1月10日 (旧暦)|10日]]、討伐軍は本道を攻めつつ、主力を川上口にまわした。奇兵隊の指揮官だった[[三好重臣]](軍太郎)は敵の急襲に支えられず退却したが、本営の金麗社にいた山縣は狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み、左翼よりから敵を狙撃させた。山縣は川上口を支えるように厳命を下すと、奇兵隊の別隊長である[[湯浅祥之助]]の隊を横撃させた。湯浅隊は大田街道右側の小山を駆け下りて敵の側面よりから攻撃し撃退した。この際に[[鳥尾小弥太]]、[[山田鵬介]]の両伍長が活躍を見せた。
 
[[1月14日 (旧暦)|14日]]、今度は本道の[[呑水峠]](のみずたお)で大規模な戦闘となった。午前10時よりから午後2時まで戦った末に敵を撃退した。高杉は遊撃隊を率いて諸隊に合流、2日前の[[1月14日 (旧暦)|14日]]には[[太田市之進]]の御盾隊も小郡から帰還した。[[1月16日 (旧暦)|16日]]、絵堂の西にある赤村を夜襲した諸隊は秋吉台周辺よりから敵を撃退した。
 
毛利敬親の諮問をうけた[[毛利元純]]が諸隊へ接触を図ろうとしたことよりから、萩の動揺を察知した高杉は諸隊に向かって[[明木]]の討伐軍本営を衝くべきと主張したが、狭い山道を進むよりも山口に向かおうとした山縣は太田(御盾隊)、[[福田侠平]](奇兵隊)、[[堀慎五郎]](八幡隊)を集めて「もし諸君が明木に進軍するつもりなら私も異論はないが、それならば私を先鋒にしてもらいたい」と発言した。高杉は意見を撤回して諸隊は山口へ入った。
 
16日、萩城に毛利将監以下の諸士が登城した。敬親に拝謁した一同は諸隊を武力で征討する不可を上申した。正義派にも俗論党にも組しない中立派は「鎮静会議員」と称し運動を始めた。一方で毛利元純は諸隊との休戦工作のため、[[1月21日 (旧暦)|21日]]に萩と山口を結ぶ往還の集落[[佐々並]]において諸隊と協議した。元純は双方が萩と山口へ撤退する方針で打診したが諸隊は拒否。[[1月23日 (旧暦)|23日]]に萩よりから討伐軍に対して撤退命令が出され、[[1月28日 (旧暦)|28日]]までの休戦協定が結ばれて会見は終わった。
 
ところが[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]、山口を訪れた鎮静会議員3名が帰路の明木で俗論党(選鋒隊)により暗殺されると、諸隊の仕業であると誣告する俗論党への排斥運動は高まり、一方で処罰された正義派への大赦が続いた。[[2月14日 (旧暦)|14日]]、奇兵隊、八幡隊は[[東光寺]]に、御盾隊は[[大谷]]に入り、[[2月15日 (旧暦)|15日]]には[[玉江]]へ遊撃隊が入り、[[癸亥丸]]は海岸に近づいて再び空砲を鳴らし続けた。14日、椋梨藤太は萩よりから逃亡したが津和野で捕縛され俗論党は崩壊、長州藩の内訌戦は正義派の勝利に終わった。
 
内乱の最中の[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]、征長軍は解兵令を発したが、[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]に幕閣は徳川慶勝へ藩主父子及び五卿を江戸まで拘引せよとの命令書を与えた。命令書を受け取った慶勝は「征長について将軍よりから全権を委任され、降伏条件と解兵は総督府を通じて幕府へ報告した。命令の実行は解兵した現在では不可能である」と断って、その上で処罰をうけるなら受け入れると回答した。幕府は長州処分は江戸で行うため慶勝は京都に入らず上府するように命令したが、朝廷も慶勝へ上洛せよとの命令を出した。板ばさみのため、1月16日に大坂に着いた慶勝は所労と称して滞坂することにした。
 
== 第二次長州征討に至るまで ==
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大政委任を確認した元治国是は長州処分を幕府の専権事項に含んだが、朝廷も国事に関して幕府諸藩へ命令を出すことができるとした。朝廷、幕府、諸藩のパワーバランスの上に成り立つ体制下では大政委任が空文化する恐れもあった。[[徳川慶喜|一橋慶喜]]、[[会津藩]]主兼[[京都守護職]][[松平容保]]は[[大奥]]や保守派大名の影響力が大きい[[江戸城]]から将軍徳川家茂を引き離し、畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとした。しかし幕閣は第一次長州征伐の後[[フランス第二帝政|フランス]]の後押しもあり強硬な姿勢をとり、朝廷からの再三の上洛要請も遷延策で無視をした。長州処分も諸藩を動員し長門周防を取り囲めば藩主父子は自ら出頭してくるとの見込みであり、最終処分案は慶応2年(1866年)1月21日まで決まらないまま事態は推移した。
 
復古派の幕閣に対して勤皇諸藩は朝廷を以て幕府を制し挙国一致の体制を志向した。憂慮した松平容保は自ら江戸に出て将軍上洛運動を起こそうとしたが[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]に[[阿部正外]]、[[2月7日 (旧暦)|7日]]に[[松平宗秀|本荘宗秀]]の両[[老中]]が幕府歩兵を率いて上洛したことで容保の東下は中止となった。[[松前崇広]]よりからの内報では、阿部と本荘の目的は将軍上洛の中止と一橋慶喜と容保および弟の[[桑名藩]]主兼[[京都所司代]][[松平定敬]]を京都よりから追い出すことにあると知らされた。[[2月22日 (旧暦)|22日]]に参内した両老中は目的を達せずに[[関白]][[二条斉敬]]の叱責をうけた。[[2月23日 (旧暦)|23日]]、阿部は将軍上洛のために江戸へ帰らされ、本荘は摂海警備のために大坂表へ向かわされた。
 
一方で7日に上京した薩摩藩士[[大久保利通]](一蔵)は[[小松清廉]](帯刀)と共に[[2月9日 (旧暦)|9日]]に[[久邇宮朝彦親王|中川宮朝彦親王]]に、[[2月11日 (旧暦)|11日]]には[[近衛忠房]]に謁見した。[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]、京都所司代への御沙汰書が降下された。内容は藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予すること、[[参勤交代]]の制度は[[文久の幕政改革]]の内容に戻すこと、将軍は上洛した上で国是を評議することであった。慶喜・容保は所司代に御沙汰書を留置させ、御沙汰書は一旦撤回され、[[3月14日 (旧暦)|14日]]に本荘宗秀が参内して受け取り[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]、江戸城に登城して幕府に提出した。
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家茂が大坂に戻ったのは摂海に異国船が入ってきたためであった。同日、阿部正外、[[山口直毅]]、[[井上義斐]]はイギリス艦プリンセスロイヤルで[[イギリス帝国|イギリス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[オランダ]]と会談、その後グランス艦ゲリエールでフランス公使と会談した。イギリスの[[神戸港|兵庫]]開港要求の諾否につき阿部は即答せずに大坂城へ持ち帰り、[[9月24日 (旧暦)|24日]]、[[9月25日 (旧暦)|25日]]と幕府首脳は会議を開いた。阿部と松前崇広は幕府の専権で兵庫大坂の開港開市を決めると決断し閣議をまとめた。回答の期日と約束したのは[[9月26日 (旧暦)|26日]]である。
 
『徳川慶喜公伝』によると24日、京都で将軍の招命をうけた慶喜は25日夜に京都を出た。26日「明星の尚閃く頃」に大坂に着いた慶喜は、大坂城の評議はすでに解散していたため阿部の宿舎を訪れ兵庫の応接を尋ねた。阿部は幕府の責任で決定したと返答し朝廷の許しが得られなければ将軍は辞職をすると伝え、慶喜は勅許を得ずに開市開港すれば朝廷の信頼を失い諸藩も収まらないとし、「されば唯今より直に諸有司を城中に招集して再議せらるべし」としてそのまま大坂城に入った。26日、慶喜は公使には回答の延期を申し出てその間に天皇よりから勅許を貰うべきとし、阿部・松前は幕府の独断で行うと主張。結論はでなかった。
 
[[立花種恭]]は延期の使者となりイギリス公使[[ハリー・パークス]]に10日間の猶予を申し出た。立花から見たパークスは怒り、暴言を吐き、挙動傲慢であったが、にわかに語気を改めて10日間の猶予を認めた。この際に同行した大坂町奉行の井上義斐が誠意をもってイギリスと交渉し猶予を獲得したとされる。慶喜からみた両老中は10日間の猶予を貰ったと知らされると「別室に慶喜を招き」「涙を流して後悔の念をあらわして」どんな罪でも伏罪すると表明し当面は謹慎するとした。大坂の慶喜は回答を猶予した件を京都の容保に知らせると勅許獲得の工作を依頼。また家茂に謁見して速やかに上洛して条約勅許を申請すべきとして、自分は先乗りで帰京する旨を伝え26日の夕方に「鞭を挙げて京都に馳帰らる」。
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[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]、藩主父子は祖先の霊に対し藩内の擾乱を謝罪するとの名目で祭祀を布告して全ての藩士も参加をさせられた。[[2月28日 (旧暦)|28日]]、毛利敬親は[[湯田]]に入り巡視を行い民心を安堵させ、[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]に諸隊は正式に藩の軍隊とされた<ref>3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。</ref>。[[3月23日 (旧暦)|23日]]、敬親は山口に集まった支藩主へ「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道之事」の遵守を伝えたが、吉川経幹は山口へ参集しなかった。[[3月26日 (旧暦)|26日]]、敬親は世子の定広を残して萩へ帰還した。[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]、敬親は山口に戻り経幹は[[5月6日 (旧暦)|閏5月6日]]に山口へ出た。[[5月20日 (旧暦)|20日]]に藩主父子、支藩藩主、経幹は会議を開き、幕軍が攻めてくれば周防長門の二州は一致してことにあたると決議された。
 
[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]、高杉は[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]、[[ラウダ]]との会見後に[[長崎]]よりから下関に戻り、長府藩と清末藩から下関を取り上げて長州藩直轄として開港しようとした。ところが[[4月22日 (旧暦)|22日]]に藩内に情報が洩れたため藩庁は開港はないと声明を出し、高杉は下関出張を免じられた。同月下旬、攘夷派と長府清末藩の藩士から命を狙われた高杉と井上馨は藩外へ逃亡、伊藤博文も対馬へ逃亡しようとしたが[[4月26日 (旧暦)|26日]]に亡命していた桂小五郎(後の[[木戸孝允]])が下関に入り、事態を収拾させたため長州藩へ戻り、後に高杉と井上も逃亡先から戻った。[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]、桂は山口で敬親に拝謁した。抗幕体制のため長州藩は一般政務を管掌する[[国政方]]、財政民政を管掌する[[国用方]]が政事堂の下に置かれた。[[5月27日 (旧暦)|27日]]、桂は国政・国用トップよりから諮問に預かる用談役に就任、村田蔵六(後の[[大村益次郎]])も藩政の中枢に参画して近代洋式軍隊の創設にあたることになった。
 
[[5月1日 (旧暦)|閏5月1日]]、下関にいた[[坂本龍馬]]は[[時田少輔]]を通じて桂に会見を申し入れた。桂は時田よりからの書簡を藩へ提出、敬親よりから下関に出る許可を得た。[[5月4日 (旧暦)|4日]]に下関へ入った桂に対して坂本、[[土方久元]]は[[5月10日 (旧暦)|10日]]前後に薩摩の西郷が上京するが途中で下関に寄ると伝え桂との会談を斡旋した。[[5月21日 (旧暦)|21日]]、[[中岡慎太郎]]は[[5月15日 (旧暦)|15日]]に薩摩を西郷と出たが西郷は下関に寄らず豊後佐賀関で別れたと手ぶらで下関に入った。不快とした桂へ坂本と中岡は陳謝、この件については一任してもらいたいと申し出て桂も了承した。
 
[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]、井上・伊藤が長崎へ入った。長州藩は抗戦武装のため小銃1万丁を求め[[青木郡平]]を長崎に派遣していたが、坂本は薩摩藩の名義で長州藩がイギリスよりから購入できるように薩摩藩へ運動。薩摩が同意したため桂は藩政庁の承諾がないまま2人を長崎へ派遣したのである。[[千屋虎之助]]、[[高松太郎]]、[[上杉宗次郎]]、[[新宮馬之助]]は協議の上で小松清廉に薩摩藩で伊藤井上を潜匿させるように依頼した。
 
[[7月26日 (旧暦)|26日]]、山口で藩主父子及び三支藩藩主、吉川経幹は会議を開き、[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]に広島藩へ毛利元蕃、吉川経幹を大坂に招致する命令が出された件は上坂拒否と決定。上坂猶予の嘆願書が広島藩を通じて幕府へ出されたが幕府は却下した。ただし長州藩も大義を主張する必要があるとして重臣よりから正副2使が派遣される運びになった。
 
長崎でイギリス商人と交渉した井上・伊藤は山口藩庁へ「ミネーゲベール短筒四千三百挺、ゲベール三千挺」を購入したと報告し、小銃は薩摩藩の[[蝴蝶丸]]に積み込み8月下旬に三田尻で陸揚の手配となった。[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]、山口において藩主父子に謁見した井上は小銃購入の手配に上杉宗次郎の功績が大きかったと報告した。藩主父子は上杉を山口に招き三所物を与え[[9月8日 (旧暦)|8日]]、薩摩の[[島津久光]]・[[島津忠義|忠義]]父子へおくる書簡を上杉へ託した。木造蒸気船[[ユニオン号]]も購入する段取りとなったが、これは藩内外に紛糾が起こった。
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[[9月16日 (旧暦)|16日]]、大坂から徳川家茂が京都に入り長州再征勅許獲得の運動が始まった。[[9月24日 (旧暦)|24日]]、大坂を出た坂本龍馬は[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]、三田尻へ入った。坂本は上方に藩兵を駐屯させる薩摩藩のために兵糧米を提供してほしいという名目で長州に薩摩の交渉を持ち出した。坂本は山口政庁の[[山田宇右衛門]]、[[国貞廉平]](直人)、[[中村雪樹|中村誠一]]、[[広沢真臣]](藤右衛門)に説いた上で、10月下旬まで桂小五郎のいる下関に滞在した。
 
[[10月7日 (旧暦)|17日]]、井原主計を正使、宍戸備後助を副使として両名は大坂へ出張するように命じられた。[[10月22日 (旧暦)|22日]]、井原と宍戸は広島に入り[[10月26日 (旧暦)|26日]]に大坂へ出発すると決まったが前日に井原は無断で帰藩をしたため、山口藩庁は[[10月29日 (旧暦)|29日]]、宍戸に1人で応対するように命令を出した。広島に出張した使節団は広沢真臣を中心として宍戸備後助が応接に専任(後に[[木梨彦右衛門]]を副使とする)。会見の段取、長州藩と幕府との連絡は広島藩が担当した。山口の政事堂には現地の様子は使節団よりから逐次報告された。
 
[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]、広島の国泰寺で長州藩の使節と幕府側の第一回会談が開かれた。永井尚志は長州藩に対して質問をしたが、宍戸は逐条答書、国情陳述書を出して疑惑を否定した。[[11月30日 (旧暦)|30日]]、国泰寺で第2回会談が行われ宍戸、木梨、諸隊代表が出席した。すでに11月上旬には幕府は攻め口の部署割りをした。幕府が交渉中に戦端を開くのでは危惧する山口藩庁は12月8日に使節団の引揚を命じたが、宍戸・木梨はなお幕議の決定を聞かないままでは帰れないとして広島に残った。
 
12月に[[黒田清隆]](了介)が京都に木戸孝允(桂小五郎)を伴うために長州藩へ入ったが、木戸は黒田との上京を拒絶した。21日、毛利敬親は木戸へ京都出張を命じた。27日、黒田と木戸、三好重臣、[[品川弥二郎]]、[[早川渡]]、[[田中光顕]](顕助)は三田尻よりから出て年明けの慶応2年(1866年)1月4日に大坂へ入った。1月21日、木戸は目的を果たして京都を出発、1月27日に広島で宍戸と会談して2月6日、山口に入り藩主父子に復命をした。
 
=== 幕長の談判決裂 ===
以下、年の記述がない場合は1866年とする。但、旧暦の日付とする。
 
1月22日、幕府は長州処分の最終案<ref>藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶</ref>を奏上、勅許が下された。26日、小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まった。2月7日の朝、小笠原を含む幕府の高官たちが広島へ到着。22日、小笠原は広島藩を通じて、三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前助、毛利筑前(以下、二家老と記す)に召喚命令を出したが病として拒絶された。24日、芸州先鋒の[[彦根藩]]よりから[[安芸国]]と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られたが、吉川家は宗家と行動をともにすると回答して幕府の離間策は奏功しなかった。
 
長州挙藩一致を示す事例として2月、藩主の内覧を経て小冊子「防長士民合議書」が印刷、藩内外へ頒布された点が挙げられる。防長武士および農民の対幕府決戦の覚悟を述べたこの冊子は『防長回天史』によると36万部印刷された。実際は数千部に過ぎない(『忠誠公勤皇事蹟』)とも、宍戸が起草、製本を指示し「内輪ハ後ニテモ他邦ヘ早ク配リ度」と催促してるように広島における幕府との交渉において挙藩一致体制を擬装するための宣伝工作文書であるとも指摘がある<ref>三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266</ref>。
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3月26日、小笠原は広島藩を通じて4月15日までに藩主父子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出し宍戸には帰国して幕命を伝えるように命令した(4月2日に出された召喚命令により出頭期日は4月21日となる)。山口政庁へ急使を送った宍戸は4月5日に広島を発して6日に高森に入り同地で留まり事前の打ち合わせ通り出番を待つことになった。4月4日(または5日)、長州藩の諸隊の1つ第二奇兵隊で暴発事件が起きた。
 
4月13日、敬親は宍戸を名代として22日に宍戸は再び広島へ入り、三藩主と経幹も名代を立てて広島へ送り込んだ。5月1日、国泰寺において小笠原は四家名の名代に対して幕命を伝えたが、宍戸は病気として旅館から出なかった。幕府は末家名代をして宗家名代を兼ねさせて長州藩へも幕命を伝えることにした。3日、幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下された。広島へ滞在するように命じられた宍戸と小田村素太郎は5月8日に拘束され広島藩に預けられた。請書の提出は経幹からの請願により5月29日を期限としたが、この日までに命令に従わなければ6月5日を以て諸方面よりから進撃すると決定した。
 
4月14日、大久保利通は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出した。板倉は勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張し建白書を拒絶したが、幕府がこれまで幕府が勅命を無視してきた事実を列挙した大久保と論戦となった。再三の交渉の結果、大久保は板倉へ建白書を受け取らせることに成功した。
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大島口は長州藩領である周防国大島(屋代島、以下大島と記す)を巡る攻防戦である。大島は北は宮島のある安芸灘に、東と南は伊予灘に面した東西に長い防予諸島の1つである。長州藩の行政区分では大島宰判の管轄であった。西岸は狭い海峡(大畠瀬戸)を挟んで本州と連絡し、南下をすると上ノ関の港(上関島)に至る。
 
開戦は上ノ関へ6月7日、幕府の軍艦が砲撃したことにより始まった。6月8日、[[伊予松山藩]]軍は大島へ上陸し、地元住民に乱暴狼藉を加える。9日、幕艦は島の北側である久賀へ砲撃、11日、再び幕艦の砲撃の後で久賀村から幕府陸軍が上陸。同日、島の南側である安下庄よりから松山藩軍が上陸、村上亀之助の兵と交戦したが当時の日本船籍として最大かつ最新鋭の富士山丸(排水量千tの木造蒸気船)の砲撃に晒されて撤退、夜に長州藩の全軍は本州の遠崎へ撤退した。長州藩は最初は大島を放棄する計画であったが、大島の惨状が伝わったことを受け、10日、山口藩庁は第二奇兵隊、浩武隊を大島へ派遣することを決定した。また高杉晋作へ[[丙寅丸]](排水量94tの木造蒸気船)に乗り大島へ向かうように命じた。
 
12日夜、丙寅丸は瀬戸を抜けて島の北側に停泊していた幕府方の軍艦へ大砲を撃ちかけ撤退した。この時[[富士山 (スループ)|富士山丸]]は大島の沖におらず、蒸気を落としていた八雲丸(排水量337tの鉄製蒸気船)、[[翔鶴丸]](排水量350tの鉄製蒸気船)は丙寅丸を追跡したが見失った。15日、長州兵は大島に上陸、17日に大島を奪回した。19日、松山藩兵が上陸して民家を焼くなどの行為をして撤退した。この民家への放火について10月2日、松山藩は大島へ謝罪使を派遣した(大島にて陳謝の口上を述べたのは11月17日)。なお、その口上では幕府の行動に対して諫言すべきところを、小国がゆえに萎縮して応答して、このような「実に言語を絶し相済まざる次第」を引き起こした事を長州藩に対して詫びており、幕府に対する求心力の低下を物語っている。
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=== 将軍空位期の中央政局 ===
7月20日、大坂城において家茂は客死。この日よりから慶喜が将軍職就任する12月5日まで将軍は空位となった。家茂は征長の進発に際して「万一のことあらば[[徳川家達|田安亀之助]]をして、相続せしめんと思うなり」と[[和宮親子内親王|和宮]]と[[天璋院]]へ伝えるように命じていたが、江戸の和宮は亀之助が将来の相続者であるとしながら「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては、如何あるべき」「然るべき人骵(体)を、天下の為に選ぶべし」とこの時点での相続は否定したため、相続者は慶喜以外にはいないという結論になった。7月27日、慶喜は徳川宗家は継承すると決定(正式には29日に相続)したが、なお将軍職は辞退するとした。
 
20日に島津久光・忠義父子の連名により二条斉敬へ征長反対の建白書が提出された。具体的には寛大の詔を下して征長の兵を解き、然る後に天下の公議を尽くして大に政体を更新し、中興の功業を遂げられんとする政体改革の建議である。この建議は朝議にはかられた。当時の朝議は二条斉敬と中川宮が主導、両者に対して批判的な勢力は近衛忠熙・[[近衛忠房|忠房]]父子、[[山階宮]][[山階宮晃親王|晃親王]](中川宮の兄)があり、別グループとして[[中山忠能]]、[[大原重徳]]、[[中御門経之]]、[[正親町三条実愛]]がいた。後者の指針は朝廷改革と攘夷貫徹であり、朝廷改革とは大政委任が現実には朝廷の権威を幕府に利用されるだけであるという不満から朝廷が主体的となり国政を一元化させようとする動きである。当然島津父子の建白書は賛成であった。
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大久保利通は諸大名召集の行方を注視する一方で、[[岩倉具視]]の列参運動にも関心を寄せた。安易に朝廷を利用する慶喜に対して公卿たちの不満は爆発。二条斉敬、中川宮を引きずり下ろして朝廷改革を進めようとする動きが出た。岩倉具視は列参諫奏により改革運動を推進しようとした。薩摩側は朝廷内部の変革が諸侯参集に影響を与えることを危惧したが、岩倉側は列参の目的は諸大名の召集を朝廷が行うことにより幕府を棚上げする点にあると説明し、薩摩藩と岩倉側の同意がなり8月30日に列参が行われた。目的は朝廷改革、長防解兵の勅宣、勅勘公卿の赦免、そして諸藩召集である。
 
列参の結果は孝明天皇の逆鱗に触れ中御門経之、大原重徳、山階宮、正親町三条実愛は処罰された。余波として二条斉敬、中川宮は辞意を表明するがその反作用として慶喜の除服参内、将軍宣下へ動く結果となった。孝明天皇に対して諫奏しようとしても既に朝廷政治は公卿だけで行われる段階ではなく、慶喜がその一角に位置を占めていた。「不偏不党の権威を朝廷に求める廷臣にとって朝廷改革の最大の障害物は孝明帝自身であるという結論」([[原口清]]『原口清著作集2 孝明天皇と岩倉具視』)になる。薩摩側はすべてが裏目とでて、朝廷内のシンパが処罰されたことで発言力も低下を余儀なくされた。朝廷よりから上洛令を出された24の諸大名でも上京したのは世子を含めて9名に過ぎなかった。物価高騰による不満から各地で一揆が頻発し諸侯にしても中央政局にコミットする余裕はなく、また幕府に批判的であるが封建諸侯である以上幕府の否定をするには壁が高い状況が明らかとなった。かくして慶喜の将軍就任の環境は整った。
 
慶応3年5月の[[四侯会議]]では、課題の一つとして、停戦した長州との問題が話し合われた。紆余曲折の末、主導権を握った慶喜が長州寛典論を奏請し、[[明治天皇]]の勅許を得る。慶応3年12月8日の二条斉敬が主催した朝議にて、毛利敬親・定広父子の官位復旧が決定し、長州は朝敵を赦免された。