「庄内藩」の版間の差分

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m →‎幕末~戊辰戦争: 清川八郎の出身地 補記
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明治元年12月に公地没収。11代・[[酒井忠篤_(庄内藩主)|忠篤]]は謹慎処分となったが、弟・[[酒井忠宝 (庄内藩主)|忠宝]]が12万石に減封の上、[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]へ、翌明治2年([[1869年]])6月には[[磐城平藩]]へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年([[1870年]])酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が解体と流刑となったのとは逆に、庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには明治政府軍でも[[薩摩藩]]の[[西郷隆盛]]の意向があったと言われ、この後に庄内地方では西郷隆盛が敬愛された。明治3年11月には、旧庄内藩主酒井忠篤が旧藩士78名と共に鹿児島に入り、また後年にも旧家老菅実秀等が鹿児島を訪問し、西郷隆盛(西郷南洲翁)に親しく接する機会を得た。この経験を踏まえ、南洲翁の遺訓をまとめた「西郷南洲翁遺訓」が旧庄内藩士により、明治初期にまとめられた。現在でも、南洲翁の遺徳を伝えようと、財団法人 荘内南洲会により南洲神社が運営されている。                  [[明治]]2年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]、藩名は大泉藩と改称された。同年、[[胆振国]][[虻田郡]]を領有している。
 
尚、当藩出身の著名な人物として、領内清川村出身の志士・[[清河八郎]]がいる。
 
明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により大泉県となる。後、[[酒田県]]や[[鶴岡県]]への改名を経て、[[1876年]][[8月21日]]に[[山形県]]に編入された。