「武帝 (漢)」の版間の差分

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さらに、王温舒などは自分の職権を乱用し、[[賄賂]]を請求したり、無実の人を処刑したり、罪人を要職に就けたりしていた。また、異母兄の[[趙]]の敬粛王の[[劉彭祖]](生母は賈氏で、中山王[[劉勝]]の同母兄)も酷吏のような仕事を好んでやっていたと『[[史記]]』五宗世家に記されている。
 
極めつきが太子の反乱による混乱である。老いにより感情的に不安定になり、迷信深くなった武帝は、[[仙人|神仙]]思想に傾倒するとともに誰かに呪われているという強迫観念をつのらせ、[[江充]]を信任してその探索を命じる。江充は当時皇太子であった戻太子[[劉拠]]に恨みを買っていたため、武帝死後に戻太子に誅殺される事を恐れ、武帝を呪い殺そうとしているという疑惑を戻太子に被せて殺そうとした。進退窮まった劉拠は江充を殺し囚人を武装させて挙兵するが、武帝は[[丞相]]の澎侯・[[劉屈リ|劉屈{{lang|zh|}}]](武帝の甥で、中山王劉勝の子)に鎮圧させた。劉拠は逃亡したが、後に自殺したとも、殺害されたとも言われる(巫蠱の獄)。
 
武帝の治世下では誰かを呪い殺そうとしたという罪により処刑された者が多かった。当時の呪いは、[[巫蠱]]の術と呼ばれ、人形に呪いたい相手の名前を書き込み、土に埋めるというものだった。この「人形を使う」というところが要所で、証拠の捏造が容易であったため、政敵を陥れたい者や取り締まりの実績を上げたい官吏がこれを悪用することが多く、巫蠱の罪で処刑された者の多くは冤罪だったのではないかと言われる。前出の戻太子の事件のほか、[[丞相]]の澎侯・[[劉屈{{lang|zh|劉屈]](武帝の甥で、中山王劉勝の子)}}はその嗣子の妻が弐師将軍・[[李広利]]の娘だったために、李広利の妹が産んだ昌邑王・[[劉ハク|劉{{lang|zh|髆}}]]を太子にすべく巫蠱を行った。それが仇となり、劉屈{{lang|zh|氂}}と李広利の一族は誅殺され、外征中だった李広利は匈奴に投降したものの政敵に殺害されたという。
 
その後、長い間に皇太子の座は空白だったが、晩年に至り末子の劉弗陵(後の[[昭帝 (漢)|昭帝]])を皇太子とし、[[霍光]]・[[金日テイ|金日{{Lang|zh|磾}}]]・上官桀の三人に後を託し、直後に死去した。