「平塚川添遺跡」の版間の差分

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1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見され、当時の[[甘木市]]教育委員会と[[福岡県教育委員会]]により翌1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が進められた。
 
遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の[[環濠集落|環濠]]、[[竪穴式住居]]跡約300軒、掘立柱建物跡約100軒が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。遺物は生活[[土器]]のほかに[[銅矛]]・[[銅鏃]]・[[鏡]]片・[[{{関連仮リンク|貨泉]]|ref=日本の書道史#貨泉}}などの[[青銅]]製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。植物は[[ヨシ|アシ]]・[[ブドウ]]・[[ハンノキ]]・[[イチイガシ]]・[[ツブラジイ]]・[[コナラ]]・[[ヤマモモ]]などが出土している。
 
時代としては中国の歴史書に記されている[[倭国大乱]]から[[邪馬台国]]の時代にあたり、このような集落構造が当時の「クニ」の実態を理解する上で極めて重要であるとして、1994年(平成6年)に遺跡部の112,073.88平方メートル(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。