「アフォンソ2世 (ポルトガル王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
1211年に父サンショの跡を継いでポルトガル王位に就いた。
 
[[レオン王国|レオン]][[レオン君主一覧|王]][[アルフォンソ9世 (レオン王)|アルフォンソ9世]](従兄、姉テレサの元夫)との戦争のため、[[1212年]]の[[ナバス・デ・トロサの戦い]]にアフォンソ2世自身は参戦しなかったが、臣下の多くが[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|王]][[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]の元に集まった<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、171頁</ref>。
 
[[1217年]]9月に[[ホラント伯]]{{仮リンク|ウィレム1世 (ホラント伯)|en|William I, Count of Holland|label=ウィレム1世}}が指揮する[[第5回十字軍]]の分派の助けを得て、[[アルカセル・ド・サル]]を獲得した<ref>ローマックス『レコンキスタ 中世スペインの国土回復運動』、181頁</ref>。
 
国内の聖職者との対立のためにアフォンソ2世は[[教皇|ローマ教皇]][[ホノリウス3世 (ローマ教皇)|ホノリウス3世]]から[[破門]]を宣告され、教会への補償を約束した<ref name="bri"/>。しかし、1223年に約束を果たす前に没し<ref name="bri"/>、存命中に破門は解除されなかった<ref>マルケス『ポルトガル』1、49頁</ref>。
 
== 政策 ==
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=== 検地 ===
アフォンソ2世は聖職者の権力を削ぎ、彼らが得る莫大な収入の一部を徴収しようと試みた<ref name="bri"/>。土地から多くの収入を得ている教会に対し、宗教団体による土地の購入を禁止した。しかし、個人の聖職者による土地の購入は認められており、政策は成功とは言えなかった<ref name="maru53">マルケス『ポルトガル』1、53頁</ref>。
 
土地を所有する貴族に対して、土地の登記尚書と王から与えられた特権を示し、国璽尚書院で確認を行うように命じた<ref name="maru53"/>。[[1220年]]に王領検察制(インキリサン)を実施、土地を巡る紛争の多いミーニョ地方における国王特権を調査した。加えて1216年以降に相続領地の安堵を王に申請させる制度(コンフィルマサン)も行われており<ref name="goda"/>、アフォンソ2世の治世ではインキリサンと合わせた国内の検地が行われた<ref>マルケス『ポルトガル』1、81頁</ref>。しかし、アフォンソ2世の死と若い[[サンシュ2世 (ポルトガル王)|サンシュ2世]]の即位によってインキリサンは中断される<ref name="maru53"/>。
 
== 家族 ==