「泉鏡花」の版間の差分

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[[1911年]](明治44年)、『銀鈴集』を隆文館より刊行。[[1912年]]([[大正]]元年)、「三人の盲の話」([[中央公論]])、[[1913年]](大正2年)、「印度更紗」(同前)。大正期には[[戯曲]]にも志を持ち、1913年には「[[夜叉ヶ池 (戯曲)|夜叉ヶ池]]」(演芸倶楽部)、「[[海神別荘]]」([[中央公論]])を発表。[[1914年]](大正3年)、『日本橋 (戯曲)|]]』を千章館より刊行し、ここではじめて[[装画]]の[[小村雪岱]]とのコンビを組む。[[1915年]](大正4年)、「夕顔」(三田文学)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行。[[1916年]](大正5年)、『萩薄内証話』。[[1917年]](大正6年)、「[[天守物語]]」(新小説)。[[1919年]](大正8年)、「[[由縁の女]]」を『[[婦人画報]]』に連載開始。[[1920年]](大正9年)1月、「伯爵の釵」(『[[婦女界]]』)。このころ[[映画]]に興味を持ち、[[谷崎潤一郎]]や[[芥川龍之介]]と相知る。[[1922年]](大正11年)、「身延の鶯」を[[東京日日新聞]]に連載開始。同年、『露宿』『十六夜』。[[1924年]](大正13年)、「眉かくしの霊」([[苦楽]])。
 
=== 晩年 ===
[[1925年]](大正14年)、[[改造社]]より『番町夜講』刊行。また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始、鏡花を師と仰ぐ[[里見弴]]、[[谷崎潤一郎]]、[[水上瀧太郎]]、[[久保田万太郎]]、[[芥川龍之介]]、[[小山内薫]]が編集委員を務めた。(1927年に完結)。[[1927年]](昭和2年)、「多神教」([[文藝春秋]])。この年8月、東京日日新聞と[[大阪日日新聞]]の招待で[[十和田湖]]、[[秋田県|秋田]]などを旅行。またこの年から、鏡花を囲む九九九会(くうくうくうかい)が、里見と水上を発起人として始まり、常連として[[岡田三郎助]]、[[鏑木清方]]、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集まった。会の名は、会費十円を出すと一銭おつりを出すというところから。[[1928年]](昭和3年)、[[肺炎]]に罹患し、予後静養のために[[修善寺温泉|修善寺]]を訪れる。この年、各社の文学全集(いわゆる[[円本]])で鏡花集が刊行される。[[1929年]](昭和4年)、[[能登半島]]に旅行。この前後、紀行文の類が多い。[[1930年]](昭和5年)、「木の子説法」(文藝春秋)。[[1931年]](昭和6年)、「貝の穴に河童の居る事」(古東多万)。[[1932年]](昭和7年)、「菊あはせ」(文藝春秋)。[[1934年]](昭和9年)、「[[斧琴菊]]」(中央公論)。[[1936年]](昭和11年)、戯曲「お忍び」(中央公論)。[[1937年]](昭和12年)、晩年の大作「薄紅梅」を東京日日新聞、[[大阪毎日新聞]]に連載する。「雪柳」を中央公論に発表。[[帝国芸術院]]会員に任ぜられる。[[1938年]](昭和13年)、体調悪く、文筆生活に入って初めて一作も作品を公表しなかった。
 
[[1939年]](昭和14年)7月、「[[縷紅新草]]」を『中央公論』に発表するも、この月下旬より病床に臥し、9月7日午前2時45分、[[肺癌|癌性肺腫瘍]]のため逝去。10日、[[芝 (東京都港区)|芝]][[青松寺]]にて葬儀がおこなわれ、[[雑司ヶ谷霊園]]に埋葬。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。[[佐藤春夫]]の撰に係る。
 
== 略歴 ==