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[[1960年]]代頃から朝鮮半島では[[朝鮮民族主義歴史学|民族主義史学]]が広がり、実証主義への反動から、記紀に記されている[[ヤマト王権]]の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた(後述)。
 
1983年に[[慶尚南道]]の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が[[前方後円墳]]であると[[嶺南大学校|嶺南大学]]の[[姜仁求]]教授が実測図を発表したが<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは[[鳥居龍蔵]]が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』[[中央公論社]]、ISBN 978-4120016912</ref>、後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが<ref>[[沈奉謹]]編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)</ref>、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、[[改竄]]工事を行った疑惑が持たれている<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna][[森浩一]]によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面[[写真]]が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。</ref>。これに関して[[1996年]]撮影写真は前方後円墳であったものが、[[2012年]]撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典先に写真あり<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]</ref>)。しかし、これを主張したiRONNA(いろんな)は、オンライン、オフラインの世界に散らばるさまざまな意見や解説などをまとめてユーザーに寄稿や議論の場を提供する総合オピニオンサイトであって、他の新聞社と違って信頼度は低い
 
朝鮮半島南西部では前方後円墳の発見が相次ぎこれまでのところ[[全羅南道]]に11基、[[全羅北道]]に2基の前方後円墳があることが確認されている<ref name=kokugakuin>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」]
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[[高麗大学]]教授で日本古代史学者の[[金鉉球]]は、『[[日本書紀]]』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の[[歴史教科書]]では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は[[12世紀]]の『[[三国史記]]』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうした[[ダブルスタンダード]]ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=[[鄭大均]]|authorlink=|date=1998-10|title=日本のイメージ|series=[[中公新書]] 1439|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121014399|1998}}p177</ref>。
 
=== 日本史学に基づく解釈 ===