「沖縄県」の版間の差分

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沖縄県は[[ハンセン病]]が多く発生してきた地域であり、20世紀末には日本人の新規発症者の6割から7割を沖縄県出身者が占めている<ref>日本ハンセン病学会ハンセン病新患調査班「ハンセン病新規患者の統計解析(1993年―2000年)『日本ハンセン病学会雑誌』71巻, 2002年, p.224</ref><ref>石井則久・杉田泰之・中嶋弘「ハンセン病新患動向: 1993年から1997年まで」『日本皮膚科学会雑誌』109巻, 1999年, p.763</ref>が、沖縄社会のハンセン病に対する差別や迫害は厳しいものであった<ref>日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』2005年, p.697</ref>。[[シマ社会|シマ]]ではハンセン病者(「クンチャー」と呼ばれ、これは[[乞食]]を意味する琉球方言である)を[[ガマ (洞窟)|ガマ]]、崖地、ゴミ捨て場などに隔離し、シマに戻ることを禁じる文化があった<ref>中村文哉「ハンセン病罹患者の<居場所>―沖縄社会と<隔離所>―」『山口県立大学社会福祉学部紀要』14号, 2008年, p.42, 44</ref>。亡くなっても一族の墓には入れず、逆さまにして埋め、二度と生まれてこないよう[[呪い]]をかけた<ref>中村文哉「沖縄社会の二つの葬祭儀礼―沖縄のハンセン病問題と「特殊葬法」―」『山口県立大学社会福祉学部紀要』11号, 2005年, p.44-46</ref>。昭和50年代に[[火葬場]]が増えてから沖縄にも本土式の葬儀が広まった<ref>塩月亮子「沖縄における死の現在―火葬の普及・葬儀社の利用・僧侶への依頼―」『日本橋学館大学紀要』7号, 2008年, p.52, 61</ref>が、その下でも遺骨に炒り豆を置く呪い(「これが芽吹いたら生き返ってこい」という意味だが、炒ってあるので絶対に芽は出ない)が行われている<ref>中村文哉「沖縄社会の二つの葬祭儀礼―沖縄のハンセン病問題と「特殊葬法」―」『山口県立大学社会福祉学部紀要』11号, 2005年, p.24</ref>。
 
近代医学的なハンセン病医療の場を作る動きに、沖縄県民は激しく抵抗した<ref>Koba, A., Ishii, N., Mori, S., & Fine, P.E.M. (2009). "The decline of leprosy in Japan: patterns and trends 1964-2008". ''Leprosy Review'': '''80''', p.439</ref>。[[国立ハンセン病療養所]]設置を阻止するための暴動(嵐山事件)が起きたり、療養所設置を求めた[[青木恵哉]]ら、ハンセン病患者が焼き討ちにあったりもしている。その青木らによりようやく開園にこぎつけた沖縄県立国頭愛楽園(現在の[[国立療養所沖縄愛楽園]])は、地域社会との交流が他の療養所以上に乏しかった。
 
感染性への誤解も根強く、[[琉球新報]]は投薬治療中の教員から児童へ感染が広がっているという誤った考え方を主張し(後に他紙記者により「沖縄戦後ジャーナリズム最大の汚点」と指弾される)、また[[らい予防法]]廃止前に行われた世論調査では住民の87%がハンセン病患者の全員隔離に賛成という結果が出ている<ref>日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』2005年, p.698</ref>。