「ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツ」の版間の差分

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[[クヴェードリンブルク]](生家は、ペーレ39番地)に生まれた。[[ハレ大学]]で神学を学び、その後、学生時代から既に手がけていたことであったが、地理学者[[カール・リッター]]の両親の家で、のちの著名な地理学者の家庭教師になった。その後、1785年[[クリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマン]]により創設されたシュネッペンタールの学校を訪ね、そこで体操と地理の教師として1837年までそこで教鞭を採った。1797年以降は、イーベンハインに住み、そこで1839年5月21日、亡くなった。
 
グーツ・ムーツは、特に青少年の規律正しい身体教育という思想を導入し、[[ザルツマン]]によりシュネッペンタールにもたらされた[[デッサウ]]の[[ヨハン・ベルンハルト・バゼドウ]]から始る[[{{仮リンク|汎愛主義|label=汎愛派]]|en|Philanthropinism}}の考え方を拠り所にして、広い[[運動場]]をつくり、また体操の最初の教科書ともなった『青少年のための体育』(''Gymnastik für die Jugend'' 1793年、増補改訂版1804年)を執筆した。
当時、[[ナポレオン戦争]]を目前とした政治状況ということもあり、[[フリードリヒ・ルートヴィッヒ・ヤーン]]の『ドイツ体操』(''Deutscher Turnkunst'')によって流布された「国を守ることの出来る能力」という思想と共に、彼が書いた『祖国の子らのための体操の本』(''Turnbuch für die Söhne des Vaterlandes'' 1817年)も広く読まれた。それからの一般向けの抜粋本が、『体操のQ&A』("Katechismus der Turnkunst")である。