「テキサスのインディアン戦争」の版間の差分

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しかし、コマンチェ族とカイオワ族は1830年代に2万人から3万人が住んでいたと推測されている。彼らには高性能の火器が供給されており、かなり過剰なくらいの馬も持っていた。さらに1830年代までにコマンチェ族はインディアン同士の大きな同盟ネットワークを確立し、広い交易のネットワークも持っていた<ref>{{cite book |last= Hamalainen |first= Pekka |title= The Comanche Empire |year= 2008 |publisher= Yale University Press |isbn= 978-0-300-12654-9 |pages= 177-179}} Online at [http://books.google.com/books?id=Fmh0AAAAMAAJ&pgis=1 Google Books]</ref>。共和国は民兵隊を持っていたが持続的軍隊ではなく、そのちっぽけな海軍はヒューストン政権下で大きく減らされていた。チェロキー戦争以後、ラマーはその政策を追求するための人も金も無かったが、挫けることもなかった<ref name= "Fehrenbach"/>。
ラマーの2年間の任期はコマンチェ族と開拓者の間の暴力沙汰を拡大することで特徴付けられた。例えば冬の間に捕獲できたはずのパロデュリョ・キャニオンでコマンチェ族と戦う十分なレンジャーズが居なかった<ref name= "Fehrenbach"/>。しかし1839年暮れ、コマンチェ族ペナタッカ隊の穏健派酋長達の何人かが、アパッチ族にしたようには開拓者達を完全にその領土内から追い出すことは出来ないと考えるようになっていた。コマンチェ族領土の北方で[[シャイアン族]]と[[アラパホ族]]が攻撃を仕掛け、数回の天然痘の流行で前の2世代に大きな損失を出していたことが組み合わされ、ペナタッカの穏健派酋長達は条約で利益に繋がると確信していった。それ故に彼らは共和国とコマンチェリアの境界を認めさせることと引き換えに和平を交渉するためにテキサス人との面会を申し出た<ref name="schilz">{{Handbookoftexas|id=btc01|name=Council House Fight|author=Jodye Lynn Dickson Schilz|date=2002年|retrieved=2008年12月23日}}</ref>。
 
ペナタッカ隊の戦闘派酋長で最も著名なバッファロー・ハンプはこの決定を承服せず、ラマーやその代理人を信用しなかった。コマンチェ族の他の11隊のどれも和平交渉に全く関与しなかった。