「尾花高夫」の版間の差分

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* ヤクルトコーチ時代、1998年に[[野村克也]]監督が勇退するのに伴い、自らも投手コーチを辞任。しばらくしてから、ダイエーから一軍投手コーチの就任要請を受けたが、実は阪神タイガースの監督に就任した野村監督と行動を共にする考えでいた為、野村監督に「自分も(阪神に)連れて行って欲しい」と懇願していたが、「自分はどうせすぐに(阪神の)監督クビになるだろうし、そうなったら(尾花もクビになるだろうから)心もとないから、最初に声をかけてくれたところに行け」と言われた為、ダイエーのコーチを受諾した。しかし、後に野村から「おい、(ダイエーとの)契約はどうなった?」と電話があり、「明日、契約です」と答え、野村に「今すぐ取り下げろ!」と言われた。(「[[Sports Graphic Number]]」 751号(創刊30周年特別編集「プロ野球 人間交差点 2010」野村克也 × 尾花高夫 対談より)
* 解説者時代の関西弁で温厚な語り口や穏やかそうな表情とは対照的に、典型的な武闘派で、球団、首脳陣の顔色を窺うことなく投手陣には容赦なく叱り飛ばす。ダイエーコーチ時代には、バッテリーコーチだった[[若菜嘉晴]]と、ベンチ内で取っ組み合いの喧嘩になったこともある。
* 理論派でもあり、[[千葉ロッテマリーンズ|千葉ロッテ]]投手コーチ時代、投手と一打者につき得意コース、苦手コース、癖、構え、カウント別の対応等最低20分のミーティングを実践していたことで、[[阪神タイガース|阪神]]からFA移籍してきた[[仲田幸司]]は野球の奥深さに感銘を受けたしたという。[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]コーチ時代に至っても常に相手打者の資料、データを膨大に用意していたという。
* ダイエーからのコーチ就任依頼は監督である王自身からの電話だったが、「まさか王さんが直接自分のところに電話してくるはずがない」と思い、王の「もしもし、王ですが」という言葉に「王さんですか?失礼ですがそのような知り合いに心当たりないのですが、どちらにお掛けですか」と答えてしまった。しかし王は「福岡ダイエーホークスの監督を務めております王貞治と申します」と丁寧に返答、これにはさすがの尾花も受話器を握りしめたまま直立不動になってしまった。
* 1999年の[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]との開幕戦で、王監督に対し、「監督、この試合は何対何で勝つつもりですか?どの程度の得失点を想定しておられますか?」と尋ねた。王はコーチからこのような質問を受けるのは初めてで怪訝そうな顔つきをしていると、「その想定なくしては私はどのように投手を用意したらいいのですか。例えば2対1と3対2では投手継投が大きく異なります」と続けた。王が「君はどう思う?」と聞くと、「[[西口文也]]から二点取れますか?2対1または1対0で勝たないと。いずれにせよ、接戦になるでしょう」と答え、王も頷いた(結果は1対0でライオンズの勝利。西口が完封勝利した)。この試合を機に、試合前に試合展開に応じて投手起用を事前に準備する方式が確立したという。 この年、ホークスは日本一となったが、尾花は他のコーチとの確執が絶えず、王に辞意を伝えたが、彼の手腕を認めた王が「お前の居易いようにするから」との一声で留任を決めたという<ref>飯田絵美「王の道 王貞治を演じきるということ」 [[メディアファクトリー]]</ref>。また、[[島田誠]]の存在も大きく、外様故に軽視されがちだった所を島田に助けてもらった経緯もあり、彼が王の信頼を失いかけた時は自らも島田を助ける等、互いに信頼関係を築いていた(島田の項も参照)。