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しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在する[[ドイツ騎士団国]]が[[ポーランド王領プロイセン]]内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、[[1520年]]にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部の[[オルシュティン]]へと逃れ、同地の防衛にあたった。[[1521年]]にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。[[1523年]]にはファビアン・ルジャインスキ司教が死去したため、10月にモーリッツ・フェルベルが次の司教に正式に選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。[[1525年]]にはドイツ騎士団国の最後の総長[[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク]]がポーランド国王[[ジグムント1世]]に臣従し、プロイセン公を称して[[プロシア公領]]を創設したため抗争は完全に終結した。
 
ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、[[1523年]]には隣接するドイツ騎士団国が[[ルター派]]に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。[[1526年]]にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の[[先輩]]で[[親友]]の[[地図学|地図学者]]ベルナルド・ヴァポフスキ ([[:en:Bernard Wapowski|Bernard Wapowski]]) が[[ポーランド王国]]と[[リトアニア大公国]]の版図全体の[[地図]]を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った<ref>{{Cite web|url=http://www.frombork.art.pl/Ang11.htm|title=Life of Nicolaus Copernicus |publisher=Nicolaus Copernicus Museum in Frombork|accessdate=2010-11-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060617213632/http://www.frombork.art.pl/Ang11.htm|archivedate=2006年6月17日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。1530年代に入ると、コペルニクスは聖堂参事会の古参として教区内で相談役的立場につくようになり始めた。
 
=== 地動説の発表と死 ===