「越後長岡藩」の版間の差分

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==== 寄会組 ====
'''寄会組'''(よりあいぐみ)は大組所属の藩士で特別な功労者が列することができ、その栄に浴せた。また、大組に属さない'''先法家'''と呼ばれた槇内蔵助家、能勢三郎右衛門家、疋田水右衛門家の3家は、先祖の筋目によって、寄会組に列することを世襲した。なお、「長岡市史」では寄合組と表記。
 
寄会組は先法家の他に功労者として、中老職等の重役経験者・番頭の精勤者が加えられ、時代によっては藩主の国許の菩提寺である玉蔵院[[長興寺 (長岡市)|長興寺]][[栄涼寺]]も寄会組の扱いを受けた。また時代が下ると精勤者の役職の範囲も広がった。寄会組は藩政の諮問機関と思われるが多分に名誉的側面が強い。役高250石(但し着座家の寄会組は300石高であるが、江戸時代中期ごろまでは、家禄と別に僅かな手当がついたに過ぎなかった)。
<ref>諸藩にあっては、寄組を老職クラスを除く上級家臣の総称または、所属としている例があるが、これとは異なる。また上級家臣の精勤者を遇する大寄会と、同じく中堅家臣を遇する寄会とを分けて持つ藩もあるが、越後長岡藩の場合は、特に功績のあった中堅家臣の隠居を遇するポストはなく、大寄会とも云うべき寄会組だけがあった。但し江戸時代後期から幕末にかけては、特に功績のあった用人・奉行なども寄会組に加えられるようになった。</ref>