「マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス」の版間の差分
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{{基礎情報 君主
[[Image:Bust of Pupienus - Palazzo Nuovo - Musei Capitolini - Rome 2016.jpg|thumb|プピエヌス・マクシムス]]▼
| 人名 = マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス
'''マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス'''([[古典ラテン語]]:{{lang|la|'''Marcus Clodius Pupienus Maximus'''}}, [[178年]]頃? - [[238年]][[7月29日]])は、[[六皇帝の年]]と称された[[238年]]に[[ローマ帝国]][[ローマ皇帝|皇帝]]として即位した人物。なお、生年には164年頃や165年頃から170年頃など、諸説ある。▼
| 各国語表記 = Marcus Clodius Pupienus Maximus
| 君主号 = ローマ皇帝
▲
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[238年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[178年]]頃?
| 生地 =
| 死亡日 = [[238年]][[7月29日]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = セクスティア・ケテギラ
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 王家 =
| 王朝 =
| 王室歌 =
| 父親 = マルクス・プピエヌス・マクシムス
| 母親 = クロディア・プルクラ
| 宗教 =
| サイン =
}}
▲'''マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス'''([[古典ラテン語]]:{{lang|la|'''Marcus Clodius Pupienus Maximus'''}}, [[178年]]頃
[[ゴルディアヌス1世]]らの死後に、[[元老院 (ローマ)|元老院]]によって[[デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス]]と共同で擁立された。
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バルビヌスはローマに留まり、マクシムスは[[マクシミヌス・トラクス]]を追撃に出た。対立していたマクシミヌスが6月に兵士によって殺害され、マクシミヌス軍兵士もマクシムスに投降したため、マクシムスはローマに帰った。2人は[[ゲルマニア]]と[[パルティア]]への遠征を計画したが、口論が絶えず、バルビヌスと激しく敵対したため、[[プラエトリアニ]]によってバルビヌス共々殺害されて、遺体は[[ティベリス川]]へ投げ込まれた。
プピエヌスの父母の名前は、マルクス・プピエヌス・マクシムス(140年頃 -
== 子女 ==
妻にセクスティア・ケテギラがおり、2男1女を儲けた。
* ティベリウス(ティトゥス)・クロディウス・プピエヌス・プルケル・マクシムス(195年頃 - 224年/226年以降もしくは235年以後) - ティネイア(195年頃生誕)という女性と結婚し、ルキウス・クロディウス・ティネイウス・プピエヌス・バッシウス(220年 - 250年以後)を儲けた。ティネイアは皇帝[[マルクス・アウレリウス・アントニヌス]]に反乱を起こした[[ガイウス・アウィディウス・カッシウス]]の孫娘(カッシウスの次女にして末娘ウォルシア・ラオディケ(165年頃生誕)の娘)であり、カッシウスが初代皇帝[[アウグストゥス]]の雲孫(玄孫の玄孫)にあたるため、ティネイアはアウグストゥスの雲孫の孫、ルキウスはアウグストゥスの雲孫の曽孫ということになり、プピエヌス一族は[[ユリウス・クラウディウス朝]]一族の末裔と縁戚関係を結んだことになる。ルキウスの子孫は少なくとも5世紀の終わりから6世紀の始めまで存続した。
▲長女はプピエナ・セクスティア・パウリナ・ケテギラであり、マルクスの娘と同名である。
== 関連項目 ==
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