「アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = アニェス・ド・フランス
| 各国語表記 = Agnès de France
| 家名・爵位 = 東ローマ皇后
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1171年]]
| 生地 =
| 死亡日 = [[1204年]]以後
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = [[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[アレクシオス2世コムネノス]]
| 配偶者2 = [[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]][[アンドロニコス1世コムネノス]]
| 配偶者3 = テオドロス・ブラナス
| 子女 = [[:en:Narjot de Toucy (died 1241)|ナルジョ・ド・トゥシー]]の妻
| 父親 = [[フランス]]王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]
| 母親 = [[アデル・ド・シャンパーニュ]]
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''アニェス・ド・フランス'''(Agnès de France, [[ギリシャ語]]:Άννα της Γαλλίας, [[1171年]] - [[1204年]]以後)は、[[東ローマ帝国]]皇帝[[アレクシオス2世コムネノス]]の皇后。のち[[アンドロニコス1世コムネノス]]の皇后。
 
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父は[[フランス]]王[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]、母は3度目の王妃[[アデル・ド・シャンパーニュ]]。同母兄に[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]がいる。
 
1178年、聖地からの帰途に[[コンスタンティノープル]]を訪れたフランドル伯フィリップに、東ローマ皇帝[[マヌエル1世コムネノス]]は、ルイ7世の姫を嫡男アレクシオスの妻に迎えたいと切り出した(1147年の[[第2回十字軍]]のおり、ルイと当時の王妃[[アリエノール・ダキテーヌ]]と面会していた)。マヌエルは「[[ローマ帝国]]」の地位を争うドイツ・[[神聖ローマ帝国]]に対抗するため、同盟するならフランスがふさわしいと考えていたのだった。1178年の冬から翌年にかけて、皇帝の大使たちがフランスを訪れ、婚約が整った。
 
生来の結婚が許嫁の家族に持ち出されて成立するのは、当時珍しいことではなかった。アニェスは、[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]の許嫁として9歳で[[イングランド]]へ渡った異母姉[[アデル・ド・フランス (ヴェクサン女伯)|アリース]]と、この時会ったことがなかった(この結婚は破談となる)。アニェスは[[モンペリエ]]をたち、1179年の[[復活祭]]に、コンスタンティノープルへ向けて出航した。途中、[[ジェノヴァ]]で小型艦隊は5艘から19艘に増えた。