「甲斐親直」の版間の差分

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冬将軍 (会話 | 投稿記録)
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| 画像説明 =甲斐宗運像([[熊本県]][[上益城郡]][[御船町]][[東禅寺 (御船町)|東禅寺]]所蔵)
| 時代 = [[室町時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[永正]]25年([[15051508年]])または永正12年([[1515年]])
| 死没 = [[天正]]11年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]([[1583年]][[8月22日]])?<ref name="y13">天正13年([[1585年]])7月3日死去という異説もある。</ref>
| 改名 = 甲斐親直→宗運
| 別名 = 法名:宗運
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相良氏との戦いには勝利したものの、阿蘇氏が相良氏の協力なしに島津氏と渡り合うことは困難であった。以降宗運は外交的駆け引きにより龍造寺・島津の二大勢力の間で阿蘇氏の命脈を保つことに腐心した。天正10年([[1582年]])冬に島津氏に和睦を申し入れるが、島津側が提示した条件を何一つ履行せず、逆に阿蘇氏旧領の返還を要求するなどの対応をし交渉を難航させた。
 
天正11年(1583年)<ref name="y13"/>7月5日に病死。享年7975。宗運の孫娘に毒殺されたという説もある。なお、戦国の終わりを察知した宗運は「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、[[矢部]](阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していた。しかし島津氏の内偵は名将宗運の死を察知し、天正15年(1585年)、親英は島津方が築いた[[花の山城]]を攻撃。これが島津軍の反撃を招くことになり親英は早々に降伏。わずか32歳の阿蘇家当主[[阿蘇惟光|惟光]]は島津氏に降伏したのち、母親に連れられて逃走し、大宮司阿蘇氏は滅亡した。
 
== 宗運毒殺説 ==