「第三次マイソール戦争」の版間の差分

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==開戦に至る経緯==
===マイソール王国と近隣諸国との関係===
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第二次マイソール戦争中の[[1782年]]5月、マラーター王国の財務大臣[[ナーナー・ファドナヴィース]]はイギリスと[[サールバイ条約]]を結び、[[第一次マラーター戦争]]を終結させた<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p</ref>。[[1780年]]、マイソール王国とマラーター王国は反英同盟を締結させていたため、これは盟約に違反するものであった。マイソール王国の支配者[[ティプー・スルターン]]はこの裏切りを恨み、マイソール王国とマラーター王国の対立は終わらなかった<ref>辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p</ref>。
 
マラーター王国はマイソール王国に本国まで攻め入られ、これに苦しんだナーナー・ファドナヴィースは同くマイソール王国を警戒していた[[ニザーム王国]]と同盟を組んで対抗した<ref name="Karashima205">辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.205</ref>。その後、[[1787年]][[2月]]にマイソール王国とマラーター王国との間で和睦が成立し、[[ガジェーンドラガド条約]]が締結された。
 
とはいえ、それ以降もマラーター王国はニザーム王国とともに、マイソール王国に対して警戒に当たり続けた<ref name="Karashima205"/>。両国にとって、マイソール王国とティプー・スルターンの軍事的脅威による憂いを排除することはもはや最優先課題となっていたのである<ref name="Karashima205"/>。
 
===イギリスの動向===
すでに第一次マイソール戦争と第二次マイソール戦争において、マイソール王国から手痛いを打撃を被っていたイギリスも同様であった。イギリスもまた、南インドを植民地化するうえで最大の障害でとなっていたマイソール王国の排除を望んでいたのである<ref name="Karashima205"/>。
 
[[1788年]]、イギリスはすでにニザーム割譲されていた[[北サルカール]]の[[グンドゥール]]を手に入れたが、ニザーム王国にその代償として2個大隊を与えた<ref>Wickwire, p.127</ref>。この行動はマイソール王国領にイギリス軍を近づける結果となったが、ニザームのイギリスへの援助を保証するところとなった<ref>Wickwire, p.128</ref>。
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===トラヴァンコール侵攻と開戦===
[[File:Dharma Raja of Travancore.jpg|thumb|right |200px|[[ダルマ・ラージャ]]]]
そうしたなか、[[1789年]]にマイソール王国領である[[マラバール海岸]]一帯で反乱が起きた<ref name="Fortescue548">Fortescue, p.548</ref>。ティプー・スルターンは軍を送りこれを鎮圧したが、殺害を免れた反乱者は[[ケーララ地方]]、[[トラヴァンコール王国]]と[[コーチン王国]]へと逃げ込んだ<ref name="Fortescue548"/>。
 
1789年[[12月]]、ティプー・スルターンはコインバトールに軍勢を集め、マイソール軍がトラヴァンコール王国の領土に侵攻した<ref name="Karashima205"/><ref name="Fortescue548"/>。
 
かくして両国は交戦状態となり、トラヴァンコール王[[ダルマ・ラージャ]]はイギリスの援助の下、マイソール軍を迎撃するため要塞による防衛線を張り、同月[[12月18日|18日]]に[[ネドゥムコーッタ]]で戦闘を交えた([[ネドゥムコーッタの戦い]])。これが第三次マイソール戦争の始まりであるとする説がある。
 
第二次戦争の講和条約であるマンガロール条約では同国の不可侵が定められていたため、これはマイソール王国を脅威とするイギリスに対して宣戦の口実を与えてしまう<ref name="Karashima205"/>。だが、[[ベンガル総督]][[チャールズ・コーンウォリス]]の怒りはティプー・スルターンではなく、[[マドラス]]政庁の弱腰な態度に対して向けられていた<ref>のちにコーンウォリスはこう語っている。「私は今でもこう思っています。ティプーがマドラス政庁の弱腰な態度を見て野心を起こすことさえなかったら、彼はあえてあのような行動をとらなかったでしょう」</ref>。
 
[[1790年]]4月、ティプー・スルターンはトラヴァンコール王国に再び侵入してネドゥムコーッタの防衛線を再び攻撃し、同月末にこれを破ったが、トラヴァンコール側の反撃にあい大きな損害を被った<ref>Fortescue, p.550</ref>。
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===マイソール軍とイギリスの戦い===
[[File:TipuSultan1790.jpg|200px|thumb|right |[[ティプー・スルターン]]]]
同年[[5月24日]]、イギリスはマイソール側のトラヴァンコール侵攻による条約違反を口実に宣戦し、マイソール領に侵攻した<ref name="Karashima206">辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206</ref>。
 
同月末、マドラス軍指揮官[[ウィリアム・メドウズ]]がマイソール王国からはるか南方、[[ティルチラーパッリ]]を出た。ベンガル管区からは一支隊が駆けつけ、これを援助する算段であった<ref name="Gardner173">ガードナー『イギリス東インド会社』、p.173</ref>。
 
[[7月21日]]にメドウズが[[コインバートル]]へと入城した。ティプー・スルターンに派遣された[[サイイド・サーヒブ]]の騎兵4000がこれに相手したが、追い払われてしまった<ref>Fortescue, p.552</ref>。イギリスによってコインバトールが占領されたのち、パールガート、ディンディグルなども落とされた。メドウズはコインバトール地方を占領したのち、軍を[[大支隊]]に分け、コインバトール、[[パールガート]]、[[サティヤマンガラム]]に置いた<ref name="Fortescue554">Fortescue, p.554</ref>。
 
[[9月2日]]、ティプー・スルターンは4万の軍勢で首都[[シュリーランガパトナ]]から出撃し、同月[[9月9日|9日]]に峠を越え、[[9月13日|13日]]に[[サティヤマンガラム]]を攻撃した([[サティヤマンガラムの戦い]])<ref name="Fortescue554"/>。その後、イギリス軍は夜陰に乗じて逃げ、コインバトールへと向かったが、マイソール側の騎兵1万5000がこれを追撃した。しかし、これは救援に駆け付けたメドウズの軍勢によって撃退された。
 
その後、ティプー・スルターンはイギリス軍の主力の動きを見ながら、マイソール軍にイギリス軍の連携や供給を断たせようとした。[[11月]]初頭、彼は小規模なベンガル管区軍を攻撃するため彼の大部分の軍勢を動かし、メドウズを欺いた。このベンガル管区軍9000は[[マクスウェル]]{{要曖昧さ回避|date=2016年3月}}大佐によって率いられ、[[カーヴェーリパッティナム]]にまで達し、同地の補強にあたっていた。
 
[[11月14日]]、ティプー・スルターンはカーヴェーリパッティナムを攻撃したが([[カーヴェーリパッティナムの戦い]])、これを突破することが出来す<ref >Fortescue, p.558</ref>、南へと向かった。メドウズはベンガル管区軍から何の連絡もないことを心配し、マドラスが陥落するとイギリスの尊厳にかかわるため、同地を防衛するために大急ぎで引き返した<ref name="Gardner173"/>。同月[[11月17日|17日]]にはメドウズはマクスウェルに合流してこの軍勢に加わり、マイソール軍の追撃に向かった。
 
ティプー・スルターンはカルナータカ地方を縦断して南へと向かっていたが<ref name="Gardner173"/>、イギリスの拠点でもあったティルチーパッリとそこから供給される物資に目をつけ、メドウズが到着する前にこの町を略奪して破壊した。彼は最終的にフランスの拠点であるポンディシェリーにたどり着き、イギリスに対抗するための支援を期待した。しかし、フランスは[[フランス革命]]の真っただ中であり、支援を得ることはできなかった。
 
一方、マイソール軍を追っていたメドウズの軍勢はマドラスへと向かい、同地に到着後、軍の指揮権を[[カルカッタ]]からやって来たチャールズ・コーンウォリスに返上した。
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===三者連合軍の成立と攻撃===
[[File:RobertHome - The Death of Colonel Moorhouse at the Storming of the Pettah Gate of Bangalore.jpg|thumb|[[バンガロール包囲戦]]]]
また、イギリスは長期にわたる交渉を行った末、マラーター王国、ニザーム王国とのマイソール王国に対する共同戦線を引き合意に至り、同年[[6月1日]]にイギリス、マラーター王国、ニザーム王国の三者同盟が成立した<ref name="Karashima206"/>。これにより、マラーター王国、ニザーム王国も攻め入ることとなった<ref name="Karashima206"/>。
 
同年の夏の間、[[パラシュラーム・バーウ]]に率いられたマラーター軍3万がマイソール王国の領土へと向かっていた。これには[[ボンベイ]]のイギリス軍支隊も同伴していた.<ref name="Mills275">Mills, p.275</ref>。彼らは[[ダールワール]]へと向かい、長期にわたる包囲の末、[[1791年]]4月にこの地の守備隊を降伏させ([[ダールワール包囲戦]])、5月初頭にトゥンガバドラー川を越えた<ref name="Mills275"/>。
 
また、同年1月、マラーター軍の第二軍でもあるハリ・パント率いる騎兵2万5000と歩兵5000の軍勢がプネーを出発し、マイソール王国へと侵入した。この軍勢はマドラスから送られたイギリス軍支隊によって支援されていた<ref>Duff, p.202</ref>。
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[[File:Gillray - The Coming-on of the monsoons - or - the retreat from Seringapatam.jpg|thumb|left|250px|コーンウォリスのシュリーランガパトナ退却([[ジェームズ・ギルレイ]]による政治風刺画)]]
かくして、マイソール王国の首都、カーヴェーリ川の中にあるシュリーランガパトナまで至ったイギリス軍であるが、ここで問題が生じた<ref name="Gardner174">ガードナー『イギリス東インド会社』、p.174</ref>。シュリーランガパトナがまず非常に難攻不落であったこと<ref name="Gardner174"/>、マラーター軍が近くにいなかったこと、マラバールからやってきて合流したアバークロンビー率いるイギリス軍が非常に飢えていたこともあり、包囲ができるのかが疑問となった<ref name="Fortescue576">Fortescue, p.576</ref>。また、包囲にあたり、コーンウォリスと前線にいたメドウズは連絡と補給が分断されるのではないかと心配になり始めた<ref name="Gardner174"/>。
 
結局、[[攻城砲]]兵にまで損害が出始めたので<ref name="Gardner174"/>、シュリーランガパトナの包囲がでるきるのかコーンウォリスは悩んだ末、同月25日に包囲を断念した<ref name="Fortescue576"/>。包囲は用意周到な準備が出来てからにすることにして、バンガロールへと引き返した。その3日後、同月28日にハリ・パントに率いられたマラーター軍がイギリス軍と合流した。
 
===シュリーランガパトナ撤退後の動向===
[[File:William Cornwallis as Admiral.jpg|thumb|right|250px|[[ウィリアム・コーンウォリス]]]]
コーンウォリスは軍勢とともにバンガロールへと引き返しため、マイソール軍はイギリス軍をコインバトール地方から一掃をしようとした。[[6月11日]]にマイソール軍がコインバトールを包囲した際、コーンウォリスの撤退命令にもかかわらず、チャーマーズ中尉はこれを無視して戦い([[コインバトール包囲戦]])、[[11月6日]]まで持ちこたえた<ref>Fortescue, p.578</ref>。
 
シュリーランガパトナからイギリス軍が撤退したのち、マラーター王国のパラシュラーム・バーウとニザーム王国のテージ・ウントはマイソール王国の領土北部を手に入れていたため、同盟軍から離脱していた。
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離脱後、パラシュラーム・バーウはマイソール王国の領土である[[ビダヌール]]地方を狙い、イギリスの協力もあって、[[ホーリー・オノレ]]と[[シモガ]]を獲得していた([[ホーリー・オノレ占領]]、[[シモガの戦い]])。だが、ティプー・スルターンがビダヌールに進撃してきたため、彼は同盟軍に残り続ける結果となった。
 
一方、チャールズ・コーンウォリスの弟ウィリアム・コーンウォリスはマドラスの補給ラインを確保するため、タラッセリーの海岸でフランス軍と戦った(タラッセリーの戦い)。その後、彼はマイソール王国との戦いに従事し、11月に[[ナンディドゥルガ]]を([[ナンディドゥルガ包囲]])、12月に[[サヴァンドゥルガ]]を([[サヴァンドゥルガ包囲戦]])でそれぞれ素早く落とした<ref name="Wickwire161">Wickwire、p.161</ref>。彼は莫大な物資の供給を十分に調達させ、自身のイギリス軍と同盟国の支払いを払うよう指示したうえで、マイソール軍にスパイを放ち、戦力と士気を密告させた<ref name="Wickwire161"/>。
 
一方、兄のコーンウォリスは同盟国との関係に苦慮していた<ref name="Wickwire162">Wickwire, p.162</ref>。
マラーター軍のパラシュラーム・バーウとハリ・パントを軍に離脱させないようにするため、ときには彼ら2人に賄賂を贈らなければならなかった<ref name="Wickwire162"/>。ニザーム軍に関しても同様であった<ref name="Wickwire162"/>。
 
===シュリーランガパトナの包囲と降伏===
[[File:Tipu Sultan warrior king.gif|200px|thumb|left|シュリーランガパトナ攻防戦で戦うティプー・スルターン]]
[[1792年]][[1月25日]]、コーンウォリスはイギリス軍2万2000とニザーム軍1万8000を率いて<ref name="Gardner174"/>、サヴァンドゥルガからシュリーランガパトナに向けて進撃し、アバークロンビーはマラバール海岸から同地に向かった<ref name="Wickwire170">Wickwire, p.170</ref>。
 
マイソール側はイギリス軍をシュリーランガパトナに近づけぬよう、その行列を妨害し続けたが、進軍を止めることはできなかった。このため、コーンウォリスはバンガロールからの供給を保つため、一連の前哨地を建設しなければならなかった<ref name="Wickwire170"/>。
 
[[2月5日]]、イギリスおよび同盟軍がシュリーランガパトナの平野前に到着すると、ティプー・スルターンはロケットをシャワーのように浴びせて攻撃した<ref name="Wickwire170"/>。これはマイソール軍の得意攻撃であった。
 
その夜、コーンウォリスはこれに対応するため、彼の陣地からマイソール軍に夜襲を仕掛け、幾分混戦が続いたものの、翌[[2月6日|6日]]までにマイソール軍はシュリーランガパトナへと撤退した。同盟軍は包囲網を形成し、シュリーランガパトナを包囲した([[シュリーランガパトナ包囲 (1792年)|シュリーランガパトナ包囲]])<ref name="Gardner174"/><ref name="Wickwire170"/>。
 
同月[[2月12日|12日]]、アバークロンビーがボンベイ軍とともに到着し<ref name="Wickwire170"/>、シュリーランガパトナの包囲がきつくなると、ティプー・スルターンはさすがに講和を申し出た<ref name="Gardner174"/>。
 
同月[[2月23日|23日]]、ティプー・スルターンとコーンウォリスは和平交渉を行い、翌[[2月24日|24日]]に和平がマイソール王国とイギリスとの間で和平が結ばれることとなった<ref name="Wickwire170"/>。
 
==戦争の終結とシュリーランガパトナ条約の締結==
[[File:Mather-brown-lord-cornwallis-receiving-the-sons-of-tipu-as-hostages-1792.jpg|250px|thumb|right|引き渡される2人の息子とコーンウォーリス]]
同年3月18日、マイソール王国とイギリスおよびその連合軍であるマラーター王国とニザーム王国との間に、和平条約である[[シュリーランガパトナ条約]]が締結された<ref name="Karashima206"/>。とはいえ、この条約はマイソール側にとっては非常に厳しいものであった。
 
まず、ティプー・スルターンは和平を結ぶにあたり降伏を認めなければならず、マイソール王国はイギリス、マラーター王国、ニザーム王国の三者に対し、実にその領土の半分(あるいはそれ以上)を割譲しなければならなかった<ref name="Karashima206"/><ref name="Chandra72">チャンドラ『近代インドの歴史』、p.72</ref>。無論、これらの捕虜は全員解放しなければならなかった<ref name="Gardner174"/>。
 
次に、マイソール王国はイギリスおよび同盟勢力に対し、多額の賠償金を支払わなければならなかった<ref name="Gardner174"/>。その額は実に3000万ルピーにも及ぶ高額の賠償金であった<ref name="Chandra72"/>。
 
最後に、ティプー・スルターンは高額の賠償金の支払いを保証するため、愛する二人の息子をイギリスに差し出さなければならなかった<ref name="Gardner174"/>。彼は息子らが人質として差し出される際、悲痛な気持ちで見送ったのだという<ref name="Gardner174"/>。
 
==脚注==
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*ブライアン・ガードナー著、浜本正夫訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年
*ビパン・チャンドラ著、粟屋利江訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年
*{{citebookCite book|last=Duff|first=James Grant|url=http://books.google.com/?id=e_Pc4ZQMoy0C&dq=hurry%20punt&pg=PA199#v=onepage&q=hurry%20punt|title=A history of the Mahrattas, Volume 2|year=1921|publisher=H. Milford, Oxford university press|isbn=1-4212-2137-3}}
* {{cite book|title=Cornwallis: The Imperial Years|first=Franklin & Mary|last=Wickwire|publisher=University of North Carolina Press|location=Chapel Hill|year=1980|isbn=0-8078-1387-7|ref=Wickwire}}
* {{cite book|title=A history of the British army, Volume 3|first=John William|last=Fortescue|url=http://books.google.com/?id=1GlKAAAAYAAJ&dq=cornwallis%20medows%20mysore&pg=PA546#v=onepage&q=cornwallis%20medows%20mysore|publisher=Macmillan|year=1902}}