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== 経歴 ==
ハルは[[テネシー州]][[ピケット郡 (テネシー州)|ピケット郡]]で生まれた。彼は[[1889年]]から[[1890年]]まで[[オハイオ州]]レバノンの国立師範大学で学び、1890年にテネシー民主党大会代表を務めた。19歳のときにハルはクレイ郡[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の議長に選ばれた。[[1891年]]に[[テネシー州]]レバノンのカンバーランド大学法律学校を卒業し法曹界入りする。彼の政治経歴は[[1893年]]のテネシー州議会で始まった。彼は州議員を[[1897年]]まで務めた。[[米西戦争]]中にハルはテネシー州義勇歩兵師団第4連隊の大尉として[[キューバ]]で戦った。
 
[[1903年]]から[[1907年]]までハルはテネシー州第5巡回裁判区の裁判官を務めた。その後、彼は下院議員に当選し、11期(1907年 - 1921年および1923年 - 1931年)22年間同職を務めた([[民主党全国委員会]]議長を務めた二年間中断された)。下院議員職中、彼は低率関税の改訂に努め、[[1913年]]には最初の連邦所得税法案(1916年の同法案修正も)、[[1916年]]には連邦および州相続税法を成立させた。彼は[[1930年]]に上院議員に選出され、[[1933年]]にはフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領より国務長官に任命された。ハルの政策は貿易の促進と関税低下を支援した。また、1930年代の[[東アジア]]開発に対する彼の警告は、[[アメリカ合衆国連邦政府]]に[[日本]]との[[戦争]]準備を支援した。
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ハルは国務長官の職を11年9ヶ月務めた。彼は最も長期間国務長官を務めた人物である。
 
ハルは1955年7月23日に[[メリーランド州]][[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]の海軍病院で、[[心筋梗塞]]ならびに[[脳梗塞]]により死去した。彼にちなんで命名されたものがいくつかある。最も有名なものは陸軍工兵隊によってテネシー州カルタゴの近くのカンバーランド川に建設された[[コーデル・ハル・ダム]]である。
 
== 著書 ==