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=== 勢力拡大 ===
西秦の周囲には前秦、後秦、[[後涼]]など様々な強国が存在したため、勢力はかなり限定的で、常に外交関係の配慮に重点が置かれた<ref name="民族大移動118"/>。[[388年]][[6月]]に乞伏国仁は死去し、弟の[[乞伏乾帰]]が大単于・河南王として即位し<ref name="民族大移動118"/>、9月には西の金城(現在の甘粛省[[蘭州市]])に遷都した<ref name="民族大移動119">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P119</ref>。乞伏乾帰は前秦に服属しながら後秦と衝突し、周辺の部族を次々と服属させ、[[吐谷渾]]からは朝貢を受けるようになるが、この勢力拡大により後涼と衝突して[[392年]][[8月]]に現在の甘粛省[[臨夏市]]を後涼に奪われて敗北した<ref name="民族大移動119"/>。[[394年]][[6月]]に前秦の[[苻登]]から河南王に封じられたが、7月に苻登は後秦の[[姚興]]により殺害されたため、乞伏乾帰は前秦との関係を解消して自立し、10月には苻登の後継者[[苻崇]]や後[[仇池]]の[[楊定 (仇池)|楊定]]を破って隴西を平定し、12月に秦王を自称した<ref name="民族大移動119"/>。
 
だが後涼との敵対は継続し、後涼の[[呂光]]の圧力を受けて[[395年]][[6月]]に苑川西城(現在の甘粛省蘭州市)に遷都した<ref name="民族大移動119"/>。7月には息子の[[乞伏敕勃]]を人質に差し出して呂光に従属した<ref name="民族大移動119"/>。だが[[397年]]、後涼から[[南涼]]と[[北涼]]が離反・自立したため後涼は衰退し、乞伏乾帰は南涼と連携して再度自立した<ref name="民族大移動119"/>。