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2017年9月場所番付発表
→‎来歴: 里山の中学校入学は奄美市発足より前。
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== 来歴 ==
奄美の土地を自ら開拓して「里山観葉植物園」を作った父の元に里山は生まれた<ref name="ref1">『相撲』2014年3月号30頁から31頁</ref>奄美市。笠利町立赤木名中学校へ入学と同時に相撲部へ入部し、その後に進学した[[鹿児島市立鹿児島商業高等学校|鹿児島商業高校]]でも相撲部に所属して、[[アマチュア横綱]]を2度獲得している禧久昭広の指導を受ける。高校卒業後は禧久の母校でもある[[日本大学]]へ進学し相撲部に所属した。同期には[[白乃波寿洋|白乃波]]や[[豊真将紀行|豊真将]](ただし1年で退部)がいる。全国大会に出場して上位に入賞する活躍を見せたものの、三大タイトルを取れずに[[幕下付出]]の資格を得ることはできなかった。しかし、同じく幕下付出の資格を得られなかった白乃波の三保ヶ関部屋への入門が決まったので、大学の先輩である尾上親方(元[[小結]]・[[濱ノ嶋啓志|濱ノ嶋]])と話し合って入門を決意し、大学卒業と同時に三保ヶ関部屋に入門して、[[2004年]]3月場所に[[前相撲]]から初土俵を踏んだ。
 
[[序ノ口]]となった翌5月場所では、同場所において初土俵を踏んだ同部屋の[[把瑠都凱斗|把瑠都]]との稽古で負傷し、最初の二番相撲を休場するが、その後から出場して全て勝利し、5勝2休の成績を挙げて勝ち越しを果たした。同年9月場所では[[序二段]]で7戦全勝の成績を挙げて優勝決定戦へ進出したものの、優勝決定戦では把瑠都に破れて優勝は逃した。[[幕下]]へ昇進した2005年1月場所には初めて負け越しを経験したが、翌3月場所から4場所連続で勝ち越し、東幕下4枚目の位置まで番付を上げた同年11月場所でも5勝2敗と勝ち越しを決め、翌2006年1月場所には新十両へ昇進した。同年8月には尾上親方が新設した尾上部屋へと移籍した。約1年にわたって十両を務めた後、2007年3月場所に東十両4枚目の位置で12勝3敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、翌5月場所に新入幕(西前頭12枚目)。新入幕となった2007年5月場所では7勝8敗と負け越し、続く7月場所でも2勝13敗と大敗して、翌9月場所において十両へ陥落(西十両5枚目)。