「オットー3世 (バイエルン公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
1290年に2人の弟[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ3世]]、[[シュテファン1世 (バイエルン公)|シュテファン1世]]と共に公位を継承した(弟たちは共にオットー3世に先立って死去している)。オットー3世は[[ハプスブルク家]]の[[ローマ王]][[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]](妻の兄にあたる)に対抗して、[[1180年]]に失った[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]の奪還に挑んだ。男系が断絶した[[アールパード朝]]の血を引くことからハンガリー王即位の要請を[[1301年]]に受けていたが、1305年にようやく受諾した。[[オーストリア]]やハンガリーの情勢と関わることで、オットー3世のバイエルンでの地位は弱体化し、最終的には財政問題でつまづいた。オットー3世はハンガリー史上では1301年から[[1310年]]までの空位時代の[[対立王]]とされる。
 
下バイエルンはオットー3世から息子[[ハインリヒ15世 (バイエルン公)|ハインリヒ15世]]、およびシュテファン1世の息子[[ハインリヒ14世 (バイエルン公)|ハインリヒ14世]]と[[オットー4世 (バイエルン公)|オットー4世]]に継承された。ハインリヒ14世の息子[[ヨハン1世 (バイエルン公)|ヨハン1世]]は最後の下バイエルン公となり、上バイエルン公から[[神聖ローマ皇帝]]となった[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]によってバイエルンは一旦統合された。
 
== 子女 ==