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=== 早世と死後 ===
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年([[1602年]])10月18日、秀詮は21歳で急死した。秀詮[[聖護院道澄]]残した記録<ref name=keizu >木下家古写『系図』</ref>による上方から帰国早世途上で行った鷹狩の最中体調を崩吉継が関ヶ原合戦3日後おい死去したと記され自害す際、秀詮の陣に向かって「人面獣心なり。三年早世祟りをなさん」と言って[[切腹]]ては秀秋裏切りによって狂乱して討ち亡に至っ大谷吉継の祟りによるものいうする逸話も残されているが<ref>『関原軍記大成』</ref>、実際に残されている病歴<ref>曲直瀬玄朔『医学天正記』</ref>からは酒色([[アルコール依存症]])による内臓疾患が死因として最有力となっている<ref group="注釈">[[BS-TBS]]『[[にっぽん!歴史鑑定]]』(2015年7月13日放送)より。番組内で出演した若林利光([[医師]]・若林医院院長)の研究にもよる。</ref>。
 
秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により[[改易]]された。これは徳川政権初の無嗣改易であった。秀詮の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、実際には最後まで秀詮に仕えた後に[[江戸幕府|幕府]]に召し出され、[[大名]]となって立藩した[[平岡頼勝]]がいる他、[[前田家]]や[[紀伊徳川家]]の家臣となった者もいた<ref>[http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/buke/colum.htm 近世武家の世界・コラム]</ref>。
 
== 人物 ==
*秀秋死後、彼と親交の深かった[[近衛信尹]]が記した追悼文<ref name=keizu >木下家古写『系図』</ref>によると、少年時代は[[蹴鞠]]や[[舞]]など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった[[高台院]](北政所)を悩ませた<ref>『木下家古写系図』</ref>。親交が深かるようになった[[公卿]]の[[近衛信尹]]も、秀秋の少年期からの過度な飲酒につて記している。このため、秀秋は[[肝硬変]]を患っていたとの説もある<ref>{{Cite news |title=小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい? |newspaper=yomiDr. |date=2016-06-27 |author= |url=https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20160627-OYTET50028/ |accessdate=2016-06-27}}</ref>。また常楽会の場において乱暴を企てるなど<ref>大日本古文書家わけ第11(小早川家文書之1)514号文書</ref>素行に問題があったようである
* 秀秋はその高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており<ref>慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状</ref>、生活は奢侈なものであったようである。
* 正室である長寿院は[[毛利輝元]]の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し[[江戸]]下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、[[興正寺]]18世・[[准尊]]に再嫁している<ref>西尾和美「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」([[川岡勉]]、古賀信幸編 『日本中世の西国社会1 西国の権力と戦乱』第4章、2010年)</ref>。