「小早川秀秋」の版間の差分
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=== 早世と死後 ===
関ヶ原の戦いから2年後の慶長7年([[1602年]]
秀詮の死後、小早川家は無嗣断絶により[[改易]]された。これは徳川政権初の無嗣改易であった。秀詮の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを責められたため仕官先がなかったなどと言われることがあるが、実際には最後まで秀詮に仕えた後に[[江戸幕府|幕府]]に召し出され、[[大名]]となって立藩した[[平岡頼勝]]がいる他、[[前田家]]や[[紀伊徳川家]]の家臣となった者もいた<ref>[http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/buke/colum.htm 近世武家の世界・コラム]</ref>。
== 人物 ==
*秀秋死後、彼と親交の深かった[[近衛信尹]]が記した追悼文<ref name=keizu >木下家古写『系図』</ref>によると、少年時代は[[蹴鞠]]や[[舞]]など芸の道に才を見せ、貧者に施しをするなど優れた少年であったが、やがて酒の味を覚えると友人達と飲み明かす日々を送るようになり、秀秋の保護者的立場にあった[[高台院]](北政所)を悩ませ
* 秀秋はその高台院から五百両にもおよぶ莫大な借金をしているが、それ以外にも客人への借金申し込みもしており<ref>慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状</ref>、生活は奢侈なものであったようである。
* 正室である長寿院は[[毛利輝元]]の養女であり、文禄3年(1594年)秀秋の小早川家への養子入りにともなって結婚したものであるが、この結婚は毛利家にとって気苦労の多いものだったらしい。秀吉の死で情勢が変化したことにより、慶長4年(1598年)9月頃、秀秋と別の女性の間に子供が生まれ、これに家康が介入し[[江戸]]下向を勧めたことを契機として、同年中に離縁がまとまり実家に帰ったようである。秀秋生前の慶長7年(1602年)8月、[[興正寺]]18世・[[准尊]]に再嫁している<ref>西尾和美「豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」([[川岡勉]]、古賀信幸編 『日本中世の西国社会1 西国の権力と戦乱』第4章、2010年)</ref>。
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