「楫取美和子」の版間の差分

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== 生涯 ==
天保14年(1843年)、[[杉常道|杉百合之助(常道)]]の四女として誕生、'''文'''と名付けられた。これは叔父であり[[松下村塾]]の創立者である[[玉木文之進]]から1字をとって与えられた名である<ref>吉田松陰書簡「文妹久坂氏に適くに贈る言」</ref>。兄に梅太郎、寅次郎(吉田松陰、この頃すでに吉田家へ養子に出て家督を継いでいた)、姉に千代、[[楫取寿|寿]]、艶、弟に敏三郎がいた。艶は文の生後すぐに夭折し、長女の千代は[[児玉祐之]]に、次女の寿は小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁ぐ。
 
[[安政]]4年([[1857年]])12月5日、久坂玄瑞と結婚する。当初は[[勤王]][[僧侶]]・[[月性]]が文を桂小五郎(後の[[木戸孝允]])の妻に推したこともあったが、最終的には玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めがあったという<ref>『物語 幕末を生きた女101人』31頁(なお、出典元では「[[月照]]」と記されているが、吉田松陰と親交があったのは月性の方である)</ref>。また、玄瑞に対しては松下村塾の年長者である[[中谷正亮]]が文との縁談を持ちかけた。玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したという<ref>関厚夫『ひとすじの蛍火―吉田松陰 人とことば』278頁</ref>。ところが玄瑞はまもなく[[京都]]・[[江戸]]に遊学したり[[尊皇攘夷]]運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちであり、[[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])、[[禁門の変]]が起こり玄瑞は奮闘ののち自害した。玄瑞の死後、次姉の夫・小田村伊之助が玄瑞の遺稿や文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖」<ref>この題は、[[赤穂浪士]]の一人・[[小野寺秀和]]が討ち入り後の細川家預かりの身の時に妻・丹と交わした書簡をまとめた「涙襟集」に由来している(『物語 幕末を生きた女101人』33頁)。</ref>と題した。また、伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている<ref>慶応元年 楫取素彦書簡</ref>。
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== 年譜 ==
*[[天保]]14年([[1843年]])、[[長門国]]萩松本村(現・山口県[[萩市]]椿東)に[[杉常道|杉百合之助]]と瀧の四女として誕生。
*[[嘉永]]6年([[1853年]])、次姉・[[楫取寿|寿]]と小田村伊之助(のちの[[楫取素彦]])が結婚。
*[[安政]]4年([[1857年]])、[[久坂玄瑞]]と結婚。
*安政6年([[1859年]])、兄・[[吉田松陰]]が江戸にて刑死。