「アル=ハラム・モスク占拠事件」の版間の差分

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当時の公式発表によれば、武装集団のうち死者は75人、拘束者は170人で、鎮圧側は死者60人、負傷約200人である<ref>こちらも諸説あって正確なところはわからない</ref>。
 
武装集団は、マフディー(救世主)を自称するカハターン・カハターニと彼等を教導した反王制イスラム主義の指導者[[ジュハイマーン・アル=ウタイビー]]に率いられており、彼らはほとんどがサウジアラビア人、一部が周辺国出身の[[マドラサ]]の学生であった。[[イラン]]との繋がりを示すものもいたが、シーア派との関連はないとされた。しかし、彼らの中にはホメイニーの写真を大事に持っていた者もおり、その思想に対する影響力を窺わせた。
 
彼らへの尋問から、占拠の起こった20日、モスク訪問が予定されていた国王を捕えて人質とすることが計画されていたことが明らかになった(国王のモスク訪問の予定は変更されていたため、国王は難を逃れた)。拘束されたアル=ウタイビーと67名の仲間らはサウジアラビアの法により翌[[1980年]][[1月9日]]に4ヶ所の処刑場で[[公開処刑]]され、その模様はテレビ中継された。