「ツキノイチバン」の版間の差分

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== 戦績 ==
=== デビュー前 ===
[[1989年]][[3月9日]]、[[門別町|門別]]の中館牧場で生を受ける。父は[[ロジータ]]を始め[[地方競馬]]で多くの活躍馬を輩出した[[ミルジョージ]]。母のエンゼルスキーが[[上山競馬場|上山]]の[[ダービー (競馬)|ダービー]]である[[こまくさ賞]]を勝ったほかは近親に目立った活躍馬はいないが、母父[[マルゼンスキー]]は本馬と同じく脚部不安に悩まされながらも大差勝ちを続けて「'''超特急'''」「'''スーパーカー'''」と称された。当歳時に[[福永洋一]]の実兄で、[[調教師]]として[[イナリワン]]などを管理した[[福永二三雄]]によりその素質を見出される。ところが育成中に左前脚関節から[[関節|骨液]]が抜けてしまうほどの故障に見舞われてしまい、以後ツキノイチバンの[[競走馬]]生活はこの不治の故障との戦いとなった。
 
=== 4~5歳 ===
ようやくデビューできたのは4歳[[7月]]の条件戦でデビューしそれをまったく追わないまま2着を9馬身千切る楽勝で飾る。この年は4戦して4戦とも抜けた競馬で快勝したが、[[11月]]に走ったのちは脚部不安から休養に入った。5歳の[[7月]]に競走へ復帰すると、その緒戦は2.2秒差の大差勝ち。B級に昇格したロマンチックナイト賞でも、直線だけで後続を2.3秒突き放す規格外の走りを見せている。いったん休んで年末開催のクリスマス特別で再度登場すると、カラ馬に絡まれる不利をものともせずに差し切り連勝を続けた。
 
=== 6歳 ===
これまで騙し騙し使われてきたツキノイチバンだが、年が明けていよいよさらなる飛躍を図る。ここまで9戦は自厩舎の新人だった[[小安和也]]騎手が騎乗していたが、年が明けて準重賞のベイサイドカップより[[佐々木竹見]]騎手へと乗り変わった。そこも6馬身差で快勝し、次走は[[金盃]]へと歩を進める。ツキノイチバンはこの競走の前に初めて一杯の追い切りを行ったが、8ハロンを75秒で駆けるというとてつもない時計を叩き出した。レースの方でも、幻の[[三冠 (競馬)|南関東三冠馬]]である[[ブルーファミリー]]をまったく追わないまま差し切り、待望の重賞初勝利を挙げている。ところが、またしても脚部不安により春の重賞戦線に姿を現すことはできず、ようやく出走してきたのは、[[8月]]も終わるころの[[アフター5スター賞]]でようやく出走した。ここでも古豪[[ハシルショウグン]]らを相手に、軽く追っただけで楽勝した。
 
その後は[[東京大賞典]]を目標に据え、まずは前哨戦として[[グランドチャンピオン2000]]へ出走した。中団から順調に競馬を進め、3コーナーではすでに3番手に付けていたが、4コーナー出口で故障を発生。そのまま外に出して競走を中止すると、予後不良の診断がくだされ安楽死の処分となった。
 
== 血統表 ==