「マティアス・シンデラー」の版間の差分

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[[1926年]]には初めてオーストリア代表に選出され、中心選手となっていった。その後、当時の監督であった[[フーゴ・マイスル]]に敗戦の責任を取らされる形で代表に呼ばれなくなった時期があったものの、しばらくして復帰した。シンデラー復帰後のオーストリア代表は、1931年4月から1934年6月までの3年あまりで30試合して21勝6分3敗という結果を残した。
 
[[1934年]][[イタリア]][[1934 サッカー・ワールドカップ|ワールドカップ]]においてもシンデラーを中心とするオーストリアは優勝候補の一角と見られていたが、準決勝で開催国であるイタリアと当たり、審判の地元有利の判定などもあって0-1で敗れた。シンデラー自身もイタリアの[[ルイス・モンティ]](もともと[[アルゼンチン人]]だったが、ワールドカップのために[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]がイタリアに帰化させた選手の一人)に徹底的にマークされ、ファウルまがいのタックルを受けてケガをするなど、この試合では活躍できなかった。続く3位決定戦の[[サッカードイツ代表|ドイツ]]戦ではにもケガのため出場できず、2-3で敗戦して4位に終わった。
 
オーストリア代表は[[1938年]]の[[1938 サッカー・ワールドカップ|フランス大会]]においても予選を勝ち抜き、本戦進出が決まっていたが、オーストリアという国家そのものが1938年3月に[[ナチス・ドイツ]]に[[アンシュルス|併合]]されて消滅したために参加不能となった。「ヨーロッパ最強」と呼ばれ、ニックネームをつけられるほどの代表チームが政治・国家によって強制的に解体された点は、後に1950年代前半に無敵を誇ったハンガリー代表'''[[マジック・マジャール]]'''が[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]で終焉を迎えたことと共通している。