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Sinran (会話 | 投稿記録)
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矢野善郎によると「実戦(×践)的」なディベートは特殊なルールに基づく弁論ゲームとなっており、現実にはどうでもよい命題や観点(擬論)を提示しあい、取りこぼすことなく最後まで引っ張り、大層でとっぴょうしもない反論(「死者の数」が多ければ多いほど良い・・・もしそのような提案を実施すればこれだけ酷いことが生じ「死者が出る」)で抗弁し、肯定側の述べたアドバンテージ(AD)と否定側の述べたディスアドバンテージ(DA)の「死者の数」の比較で勝敗を決するゲーム性の強いものである<ref>「価値あるディベートそうでないディベート」矢野善郎(NAFAセミナー1998年3月15日)[http://www.debateforum.org/2002/2e06_yano.pdf]</ref>。
 
教育ディベートそれ自体に対する批判は、教育が成功したとしても、そのディベート技術が道理に合わないことを正当化しようとする「[[詭弁]]家」や<ref>先に述べたように、[[論理学]]における[[詭弁]]とは「誤った論理展開に基づく推論」を意味するが、この意味での「詭弁家を育てる」という批判は失当である。[[論理学]]教育でもある教育ディベートにおいて、誤った論理展開を教え学ぶ者の存在は想定されていない。</ref>、批判だけが得意な「[[ニヒリズム|ニヒリスト]]」を育ててしまう危険性があるという点に集約される<ref>新井郁男「野外文化講座『持つ』文化と『ある』文化(12)」『野外文化』、1995年2月20日、7頁。教育ディベートについての「本当は反対であるにもかかわらず,賛成の立場をあえてとらせるというのは、議論の前提の善し悪しは別として、前提を正当化する論理的話術を身につけさせるということであろうが、重要なことは前提の善し悪しを問うことではないだろうか」</ref>。このような批判は、古くは[[古代ギリシア]]の[[ソフィスト]]に対する批判<ref>[[ソクラテス]]、[[プラトン]]による[[ソフィスト]]批判が典型である。</ref>から、現代の[[オウム真理教]]の幹部[[上祐史浩]]らに対する批判<ref>[[上祐史浩]]とその元彼女[[都沢和子]]は、[[早稲田大学]]の英語研究会([[ESS]])出身で教育ディベートの経験者であった。このことがマスメディアに報じられて以来、教育ディベートには「ああ言えば上祐」という流行語のイメージがつきまとうこととなった。</ref>に至るまで、教育ディベートに対する疑念として根強く存在してきた。このような批判に対しては、一般にそのようなことのないよう注意深く指導がなされているという理由から「教育ディベートに対する誤解」とする立場(望ましい議論のあり方を教育ディベートの定義に含める向き)がある一方、教育ディベートが持つ危険性を認識する立場もある<ref>80年代以降の教育ディベートを当初主導した[[松本道弘]]は、ディベートの能力をよく切れる[[刀]]に例え、刀を抜くべきときと抜くべきでないときとを見極めなければならないとする。</ref>。
 
もっとも、このような危険性はディベートに限ったことではない。ニヒリズムについての[[ハンナ・アーレント|ハンナ・アレント]]の言葉<ref>[[ハンナ・アーレント|ハンナ・アレント]]著、佐藤和夫訳『精神の生活』岩波書店、1994年。ハンナ・アレントは、ニヒリズムやマルキシズムのはらむ危険性は決してそれらに特有のものではなく思想一般に内在するものであるとして「危険思想は存在しない。思想そのものが危険なのである。」と述べている。</ref>から飛躍し、危険な議論は存在せず、議論そのものが危険なのであるとも言える。このことは、歴史教育の手法としての教育ディベートに対する批判<ref>[[藤岡信勝]]や北岡俊明といった自称“歴史教育の研究者”による教育ディベートは厳しい批判の対象となっている。ちなみに北岡は経済学部卒で本業は経営評論家</ref>にも当てはまる<ref>佐貫浩・神原昭著、彦藤原彰・森田俊男編「藤原信勝氏のディベート論について」『近現代史の真実とは何か』大月書店、1996年。「教室でのディベートの論題には、その結論がまだ確定しておらず、あるいはどう考えるかが論争的であるようなもののほうが有効」とし、藤岡らが提起する歴史認識については結論が確定しているかのような見解を示しているが、その根拠は明確でない。</ref><ref>柿田秀樹「レトリックとディベートの政治的本質:倫理批評実践」『JDA Newsletter Vol.XIV, No.4:日本におけるディベートの普及について(その3)』日本ディベート協会、1999年。柿田は、北岡のディベートの捉え方自体を「資本主義の言説を何の懐疑も持たずに鵜呑みにしている査証であり、それこそがディベートの掲げる批判精神を裏切るもの」として批判する。</ref>。