「凱旋式」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
誤字修正と音訳の変更
28行目:
パレードの費用と管理に関してはほとんど知られていない。その莫大な費用の一部は国庫から支出されたが、その多くは古代の資料が詳しく述べる将軍自身の戦利品で負担されたと思われる。一旦戦利品が売却されると、これらの動産はローマ経済に大きな影響を与えた。[[アウグストゥス|オクタヴィアヌス]]がエジプトに勝利した際は、その戦利品の売却益のため金利は下がり、土地の価格は上昇している<ref>Beard, pp. 159–161, citing Suetonius, ''Augustus'', 41.1.</ref>。古代の資料は、凱旋式のロジスティクスに関しても何も伝えていない。たとえば、数日にわたる凱旋式の間、兵士や捕虜がどこで食事をしまた寝たのか、数千の観衆が最終日のユピテル神殿での儀式まで、どこに泊まっていたのか、などは不明である<ref>Beard, pp. 93–95, 258. For their joint triumph of 71 CE, [[Titus]] and [[Vespasian]] treated their soldiers to a very early, and possibly traditional "triumphal breakfast".</ref>。
 
===パレーの経路===
以下の経路は、「何人かまたは多くの」凱旋将軍のパレードの経路を、現代の研究を元に再現したものである<ref>See map, in Beard, p. 334, and discussion on pp. 92–105.</ref>。実際の経路は、ローマ市内の再開発や建物の建築、あるいは凱旋将軍自身の選択によって幾らか変わってくる。出発点はカンプス・マルティウスであるが、ここはローマ市の宗教的な境界線([[ポメリウム]])の外側にあり、西はティベリス川([[テヴェレ川]])に接していた。パレードは凱旋門(Porta Triumphalis)を通って市内に入り<ref>The location and nature of the ''Porta Triumphalis'' are among the most uncertain and disputed aspects of the triumphal route; some sources imply a gate exclusively dedicated to official processions, others a free-standing arch, or the ''[[Porta Carmentalis]]'' by another name, or any convenient gate in the vicinity. See discussion in Beard, pp. 97–101.</ref>、ポメリウムを越える。ここで将軍は軍事指揮権を元老院と政務官に返還する。凱旋通り(Via Triumphalis)を通ってカピトリヌスの丘の南側にあるフラミニウス円形広場([[:en:Circus Flaminius|en]]、紀元前221年建設)とウェラブルム([[:en:Velabrum|en]])を通過し<ref>Sometimes thought to be the same route as the modern ''[[Via dei Fori Imperiali]]''</ref>、[[チルコ・マッシモ|大戦車競技場]]に向かう。おそらくは、処刑される捕虜は[[マメルティヌスの牢獄]]で列から離れたと思われる<ref>This is where [[Jugurtha]] was starved to death and [[Vercingetorix]] was strangled.</ref>。そこからメインストリートである[[ウィア・サクラ]]に入り、[[フォルム・ロマヌム]]に至る。最後にカピトリヌスの丘に登ってユピテル神殿に到着する。生贄の儀式と奉納が完了すると、パレードの参加者や観衆は、凱旋将軍が主催する宴会、競技会やその他の催し物に散らばって行った。
 
66行目:
==変遷==
===起源および王政時代===
凱旋式の起源と発展は不明な部分が多い。ローマの歴史家達は、最初の凱旋式を伝説時代に遡らせている;ある者はローマの建国にまで、ある者はさらに古いとしている。語源研究家は、兵士が繰り返し唱和する「トリペ(triumpe)」は、ギリシア語の「トリアムブンボ(θρίαμβος)({{lang|grc|θρίαμβος}})」([[サテュロス]]が[[ディオニューソス]]/[[バックス (ローマ神話)|バックス]]神のドンチャン騒ぎで歌う[[聖歌]])がエトルリア語経由で伝わったと考えている<ref>Versnel considers it an invocation for divine help and manifestation, derived via an unknown pre-Greek language through Etruria and Greece. He cites the chant of "''Triumpe"'', repeated five times, which terminates the [[Carmen Arvale]], a now-obscure prayer for the help and protection of [[Mars (mythology)|Mars]] and the [[Lares]]. Versnel, pp. 39–55 (conclusion and summary on p. 55).</ref>。プルタルコスや他のローマの資料は、最初の凱旋式を初代の王[[ロームルス]]が、カエニア([[:en:Caenina (town)|en]])の王アクロンに勝利した際(ローマ建国とされる紀元前753年と同じ頃)としている<ref>Beard et al, vol. 1, 44-5, 59-60: see also Plutarch, Romulus (trans. Dryden) at The Internet Classics Archive [http://classics.mit.edu/Plutarch/romulus.html MIT.edu]</ref>。帝政初期の詩人[[オウィディウス]]は、ディオニューソス/バックス神がインドを征服して帰還し、虎が引く戦車に乗り、[[マイナス (ギリシア神話)|マイナデス]]やサテュロス、その他の様々な酔っぱらいが取り巻くという、愉快で詩的な凱旋パレードを描いている<ref>Bowersock, 1994, 157.</ref><ref>Ovid, ''The Erotic Poems'', 1.2.19-52. Trans P. Green.</ref><ref>Pliny attributes the invention of the triumph to "Father [[Liber]]" (identified with Dionysus): see Pliny, ''Historia Naturalis'', 7.57 (ed. Bostock) at Perseus: [http://www.perseus.tufts.edu/cgi-bin/ptext?doc=Perseus%3Atext%3A1999.02.0137&layout=&loc=7.57 Tufts.edu]</ref>。[[アッリアノス]](2世紀のギリシアの政治家)は、ディオニューソス神の祭に加え、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の凱旋式にローマ的な要素を加えたものと考えている<ref>Bosworth, 67-79, notes that Arrian's attributions here are non-historic and their details almost certainly apocryphal: see Arrian, 6, 28, 1-2.</ref>。ローマの多くの文化がそうであるように、ローマの凱旋式もエトルリアとギリシアの影響を受けていた;特に、凱旋将軍が着用した紫色のトガは、王政後期ののエトルリア系王(最後の3代)のトガに由来すると考えらる。
 
現存する帝政時代に作られた「凱旋式記録(凱旋式のファスティ)」には欠落部分があり、王政時代のものも完全ではない。初代の王ロームルスの二度の凱旋式の後、11行が欠落している。次の記録は第4代の王[[アンクス・マルキウス]]、第5代[[タルクィニウス・プリスクス]]、第6代[[セルウィウス・トゥッリウス]]、そして最後の王[[タルクィニウス・スペルブス]](傲慢王)の凱旋式である。ファスティは王政時代からすると5世紀も後に作られたものであり、おそらくは公的に認められていた記録をいくつかの資料から集めて編纂されたものと思われる。同様に、現存する最古の王政時代の記録も、数世紀後に書かれたものであり、異なる伝承や功績を議論、再構築したものである。例えば[[ハリカルナッソスのディオニュシオス]]は、ロームルスの凱旋式を三度としておりが、[[ティトゥス・リウィウス]]は一度も実施していないとし、その代わり最初の[[スポリア・オピーマ]](敵の王や最高指揮官を一騎打ちで倒したものだけに送られる最高の栄誉)の栄誉を与えている。倒した敵の武器と甲冑は、ユピテルに捧げられた。[[プルタルコス]]はロームルスの凱旋式は一度とし、戦車が使われたとする。タルクィニウス傲慢王は、「ファスティ」では二度の凱旋式を実施したことになているが、ディオニュシオスは実施していないとしている<ref>Beard, p. 74.</ref>。第二代の王で平和愛好家であったとされる[[ヌマ・ポンピリウス]]が凱旋式を実施したという古代の記録は無い。