「ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル」の版間の差分

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井伊谷 (会話 | 投稿記録)
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いくつかの軍歴を経て、[[紀元前187年]]にグラックスは[[護民官]]へ当選したが、在職中[[スキピオ・アフリカヌス]]に[[元老院 (ローマ)|元老院]]の非難が集中する中で、グラックスはそれまで対立のあったスキピオを弾劾から救った。そして、この彼の勇気ある言動に対してスキピオは娘[[コルネリア・アフリカナ|コルネリア]]との婚姻を求めることで報いたが、コルネリアは当時は幼かったために実際の結婚生活はグラックスが40代中盤になってからであった。
 
[[紀元前179年]]に[[プラエトル]](法務官)に当選する。[[インペリウム|軍団指揮権]]を授けられた彼は[[ヒスパニア]]に赴き、現地の[[イベリア人]]の反乱を鎮圧、その功績にて[[凱旋式]]を敢行する([[第一次ケルティベリア戦争]])。
 
[[紀元前177年]]には[[執政官]]を務め、[[紀元前169年]]には[[ケンソル]](監察官)となる。この職務に対しての元老院の風当たりは強く、同僚のケンソルが告訴される寸前までいったと言う。グラックスはローマより同僚ケンソルとともにローマ国外に退去する。結局グラックスの民衆からの人気の高さに押されて告訴は取り下げられて終わるが、彼も同僚とともに辞職した。紀元前163年に彼はコンスルに再当選する。そして[[サルディニア島]]に侵出、この功績にて2回目の凱旋式を挙げる。一説には彼はこの遠征を妨害されないように、その年の執政官である[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム]]を謀略にかけて執政官から退かせたともいわれている。これがナシカ・コルクルムとの間に緊張関係を生み出したかどうかは定かではない。しかし彼らの息子たち(同名の息子[[ティベリウス・グラックス|ティベリウス]]と[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ]])はのちに政治的に対立する間柄となる。