「田山花袋」の版間の差分

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→‎主な作品: 少女病は1907年5月に刊行されて、蒲団は9月刊行されました。だから、リストに少女病を蒲団の前に置いたほうがいいです。参考文献:日本近代文学大辞典
m →‎経歴: typo, 内部リンク(大日本古文書)
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[[栃木県]][[邑楽郡]]館林町(越境合併により現在の[[群馬県]][[館林市]])に、田山鋿十郎・てつ夫妻の次男として生れた。田山家は、代々の秋元藩士。父は、[[1876年]](明治9年)[[警視庁]]邏卒となり一家で上京するが、[[1877年]](明治10年)[[西南戦争]]の際に従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死したため、館林に戻る。
 
6つ年上の長兄は「大日本地震料」(ほぼ全部)、「[[大日本古文書]]」(1,2巻)を編纂した田山實(みのる。本名実彌登(みやと))であり、『生』の鐐や、『時は過ぎゆく』の中の實のモデルである<ref>『図書館の窓』16巻9号(1977年9月1日)東大史料編纂所助教授皆川完一の文。</ref>。
 
[[1880年]](明治13年)冬、9歳で[[足利市|足利]]で丁稚奉公した後、翌年2月に上京し、京橋区南伝馬町の有隣堂書店で丁稚奉公するが、不都合(詳細不明)により、[[1882年]](15年)5月に帰郷する。