「レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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| 母親 = [[マリア・テレジア]]
| 出生日 = [[1747年]][[5月5日]]
| 生地 = [[ファイル:Banner{{HRR}}<br of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]]オーストリア/>{{AUT1358}}、[[ウィーン]]
| 死亡日 = [[1792年]][[3月1日]]
| 没地 = [[ファイル:Banner{{HRR}}<br of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg|20px]]オーストリア/>{{AUT1358}}、ウィーン
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| 埋葬地 =
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[[ファイル:Pompeo_Batoni_002.jpg|180px|right|thumb|兄ヨーゼフとレオポルト(左)]]
'''レオポルト2世'''([[ドイツ語]]:{{lang|de|Leopold II.}}, [[1747年]][[5月5日]] - [[1792年]][[3月1日]])は[[神聖ローマ帝国]]の[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]]。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]第3代の皇帝(在位:[[1790年]] - [[1792年]])、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](レオポルド1世 {{lang|it|Leopoldo I.}}, 在位:[[1765年]] - [[1790年]])。[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]の君主で、全名は'''ペーター・レオポルト・ヨーゼフ・アントン・ヨアヒム・ピウス・ゴットハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン'''(ドイツ語:{{lang|de|Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen}})。父は[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ1世]](トスカーナ大公フランチェスコ2世)、母は皇后・[[ボヘミア王国|ボヘミア女王]]・[[ハンガリー王国|ハンガリー女王]][[マリア・テレジア]]。皇帝[[ヨーゼフ2世]]の弟である
 
== 生涯 ==
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=== トスカーナ大公時代 ===
[[1765年]]に父フランツ1世が死去した際、皇帝位は兄の[[ヨーゼフ2世]]が継承したが、[[トスカーナ大公国]]は帝国の領域に含まれず、また他の[[ハプスブルク君主国|ハプスブルク家領]]とは独立して統治することになっており、レオポルトが継承した。[[1770年]]に母[[マリア・テレジア]]の[[摂政]]が終わると、レオポルトはトスカーナにおいて[[啓蒙主義|啓蒙的]]改革を行った。[[チェーザレ・ベッカリーア]]の『[[犯罪と刑罰]]』の死刑廃止論に影響を受け、1769年に死刑の執行を停止し、[[1786年]]にはヨーロッパの国として初めて、死刑そのものを完全に廃止している。
 
トスカーナは陸軍を持たず、海軍も[[メディチ家]]時代以来の小さい軍しかないが、レオポルトはそれをさらに縮小し、その余剰金を税率低減の財源とした。他には憲法の起草を命じたり(革新的すぎたため最終的には施行できなかったが)、[[種痘]]を制度化したり、[[1774年]]に精神障害者を病院に入れる法を制定したりした。
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=== 帝位継承後 ===
レオポルト2世自身は進歩的思想の持ち主であったが、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるため、皇帝即位後は[[農奴]]制廃止令の撤回、賦役の復活などの反動政策を行った。一方で質素な生活を好み、父から受け継いだ遺産を増殖させることにも成功した。
 
劇作家の[[ロレンツォ・ダ・ポンテ|ダ・ポンテ]]を国外追放、作曲家の[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]や[[アントニオ・サリエリ|サリエリ]]を冷遇するなどしたため、基本的に音楽や演劇への理解が少ないと言われるが、一方で[[ドメニコ・チマローザ|チマローザ]]をトスカーナ大公時代から気に入って、[[ロシア帝国|ロシア]]からの帰還を待って[[楽長]]的な職を与え、名作『[[秘密の結婚]]』作曲の契機を与えた。
 
レオポルト治世のオーストリア([[ハプスブルク帝国]])は東西からの脅威にさらされていた。[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エカチェリーナ2世]]はオーストリアとプロイセンに革命中のフランスと戦争をさせるよう仕向け、その間に[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド]]と[[オスマン帝国]]を侵略しようとし、フランス革命が飛び火する恐れもあった。これに対し、レオポルトはイギリスとの同盟交渉でロシアとフランスを牽制し、イギリスに対しては「同盟を拒否された場合はフランスに[[南ネーデルラント]]を割譲する」と足元を見られないよう脅した。イギリスの支持が得られると知ると、今度はそれを外交カードとして使い、プロイセンにレオポルトのハンガリー王即位を同意させる。さらに[[墺土戦争 (1787年-1791年)|墺土戦争]]の停戦協定が結ばれ東の国境が安定すると、軍を[[ブラバント革命]]の鎮圧に投入した。
 
[[1791年]]も外交関係での緊張が続いた。[[フランス王国|フランス]]で[[ヴァレンヌ事件|ヴァレンヌ逃亡事件]]が起こり、妹[[マリー・アントワネット]]夫妻を危惧したレオポルト2世は、脱出に成功した国王[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の弟アルトワ伯(後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])を介して[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]と共に[[ピルニッツ宣言]]を行った。これはフランス人を激憤させ、[[フランス革命戦争]]になった。一方オスマン帝国とは[[スヴィシュトフ条約]]を締結、墺土戦争を終わらせた。
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== 子女 ==
皇后[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルドヴィカ]]([[スペイン|スペイン王]][[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]の王女)との間に、両親と同じく16人の子宝に恵まれるをもうけた
*[[マリア・テレジア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ|マリア・テレジア]](1767年 - 1827年) - [[ザクセン選帝侯領王国|ザクセン王]][[アントン (ザクセン王)|アントン]]妃
*[[フランツ2世|フランツ]](1768年 - 1835年) - ローマ皇帝フランツ2世、[[オーストリア皇帝]]フランツ1世
*[[フェルディナンド3世_(トスカーナ大公)|フェルディナント]](1769年 - 1824年) - [[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]]フェルディナンド3世
*マリア・アンナ(1770年 - 1809年)
*[[カール・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・ルートヴィヒ・ヨーハン]](1771年 - 1847年) - 伯母[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1742-1798)|マリア・クリスティーナ]]夫婦の養子として[[チェシン公国|チェシン(テシェン)公]]、[[南ネーデルラント|ネーデルラント]]総督を継ぐ。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に野戦で初めて黒星を付けた将軍として武名を馳せる。
*レオポルト・アレクサンダー(1772年 - 1795年) - [[ハンガリー王国|ハンガリー]][[副王]]
*アルブレヒト・ヨーハン・ヨーゼフ(1773年 - 1774年)
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*[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ]](1783年 - 1853年) - ロンバルド=ヴェネト副王(1818年 - 1848年)
*ルートヴィヒ・ヨーゼフ(1784年 - 1864年)
*[[ルドルフ・ヨハネス・フォン・エスターライヒ|ルードルフ・ヨーハン・ヨーゼフ・ライナー]](1788年 - 1831年) - [[オロモウツ|オルミッツ]][[司教]]
他に愛人との間にも何人か子がある。
 
== 人物 ==
*妻マリア・ルドヴィカは豪華なスペイン王家から嫁いだが、やがて質素なレオポルトの暮らしに順応していった。夫婦仲はおおむね円満であったが、レオポルトは途中から踊り子のリディア・ライモンディを寵愛するようになる。しかしルドヴィカはリディアにも親切で、2人の仲も穏やかなものであったという。当のレオポルトは1779年頃までは、妻に対して完全に誠を尽くしていたと主張している。
*兄ヨーゼフ2世に男児がいなかったため、レオポルトに男児(後のフランツ2世)が誕生した際、母マリア・テレジアは驚喜乱舞し、[[ブルク劇場]]に駆け込み「うちのポルドル(レオポルトの愛称)に男の子が生まれたのよ」と叫んだ。悲劇の上演中であったが、芝居は完全に中断し、歓喜の渦になったという。
 
== 脚註 ==
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== 参考文献 ==
 
== 関連項目 ==
*[[ハプスブルク=ロートリンゲン家]]
*[[神聖ローマ皇帝]]
 
== 外部リンク ==