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=== 日本凱旋と流転 ===
[[File:Thedaughterofthesamurai-japaneseposter1937.jpg|thumb|right|220px|『新しき土』のポスター(1937年)]]
1930年(昭和5年)、雪洲は単身帰国、日本での活動の可能性を探るための帰国であった。雪洲は自らのためにアメリカ人作家が書いた戯曲『[[あっれウォング]]』を携えており、松竹と組んで公演を行った。同公演は9月1日の[[帝国劇場]]を皮切りに京都[[南座]]、神戸松竹劇場など全国で巡業し、1933年まで公演が続く大ヒットとなった。11月には鶴子も雪洲の後をおって来日するが、1931年にはかつての愛人ルースが雪洲を訴える。雪洲はルースに慰謝料を払い、子供の雪夫を引き取って夫妻で育てることになった。
 
1932年には初の日本映画『[[太陽は東より]]』に出演する。このころ出会った17歳のシズなる女性とも親しくなり、彼女は後に雪洲の子を二人(令子、富士子)産むことになる。さらに裁判が決着したはずのルースが子どもと面会できないといってたびたび雪洲の前に現れ、雪洲を困惑させる。1937年には日独合作映画『[[新しき土]]』が公開される。この映画で大抜擢されてスターとなったのが17歳の[[原節子]]であった。雪洲は原節子の父親役を演じた。