「東京地学協会」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KasparBot (会話 | 投稿記録)
Normdaten moved to Wikidata
m編集の要約なし
50行目:
 
== 概要 ==
会員数約800名(1998年)。地学の専門家によって構成されている。地質鉱物学約60%、[[地理学]]約30%、[[地球物理学]]その他約10%で構成され、地学における専門分野の連携を促し、その総合的な発展・普及を推進することを目的としている。学術雑誌『'''地学雑誌'''』を年6冊刊行している。多くの学会のような研究発表大会は開催されていない。地学の普及のために、一般向けの学術講演会、見学会、地学を楽しむ会、毎月の講演懇談会などが開催するほか、書籍の編集発行や、地学に関する調査研究・会議などへの助成を行っている。
 
2012年4月1日に[[公益社団法人]]に移行。
82行目:
協会はイギリスの[[:en:Royal Geographical Society<!-- [[:ja:王立地理学会]] とリンク -->|Royal Geographical Society]]を見本とし、海外の調査に早くから関心をもった。[[1910年|1910]]~[[1916年|16年]](明治末~[[大正]]初)にかけて、「清国地理調」と称し、[[中国]]中南で独自の調査を敢行。増補追加して『支那地学調査報告』3巻、化石図譜1巻、全図・地質図4葉などを出版した。これは当時の日本において驚くべき功績といえる。
 
[[1920年代]]に入り、科学の分化に伴い地学分野も多種の専門分野に分化し始め、地学に関する専門雑誌が各種刊行されるようになったこと、[[関東大震災]]によって、会館、蔵書、資料が全て焼失し、その後の事業にも多くの制約を受けたことなどから、協会は[[地質調査総合センター|地質調査所]]の庇護を受けるような状況になった。しかし、会員たちの努力によって[[1930年]]には会館を復興し、[[日中戦争]]の中では、[[1938年]]から[[1943年]]までシナ関係の論文だけで編集した「支那号」を刊行し、地学の立場から中国大陸の分析を進め、知識の普及を図った。敗戦後の難航期は拮据経営して乗り越え、[[1961年]]より地学雑誌を隔月刊として刊行した。
 
東京地学協会は、草創期から[[第二次世界大戦]]期まで、調査研究・見学旅行を世界各地で実施し、その成果を後援会や雑誌に発表、また、地質図の刊行を行い、戦後は、地質鉱物学、地理学、地球物理学、など、1920年代以降、これまで積み重ねてきた地学の専門的な研究の成果と、社会の連携を試みる活動を行いながら今日に至っている。