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弟と共に[[曹植]]に仕えた。丁儀は文才に優れており、[[曹操]]からもその才能を評価され、[[清河長公主]]([[曹昂]]の同母妹)を嫁がせようともいわれた。しかし当時、太子であった[[曹丕]]が「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です。この際、姉上には子林([[夏侯楙]])に嫁いでいただくのがよろしいでしょう」と縁談に反対した。このため曹操も頷き、丁儀と娘の縁談を破談にした。
 
だが曹操は、後に丁儀が改めて有能だと分かると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、大いに後悔したという。このような経緯から、丁儀と曹丕は犬猿の仲になってしまった。そのため曹操の晩年に曹丕と曹植による後継者争いが起こると、丁儀は曹植擁立に奔走し、曹丕を太子から廃そうと何度も画策した。丁儀の働きによって曹丕派の[[崔琰]]は処刑され、[[毛玠]]も失脚した(「崔琰伝」「毛玠伝」「徐奕伝」「何夔伝」)
 
220年に曹丕が王位に即位すると、弟と共に逮捕されて処刑された。だが、文才に富んでいた彼の死は、多くの人から惜しまれたと言う。