「三井住友銀行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
1個の出典を修正し、0個にリンク切れのタグを追加しました。 #IABot (v1.5.3)
304行目:
; [[平和相互銀行]]
: 戦前は'''東北林業'''という名の会社であったが、終戦直後看做無尽の日掛金融を営業して急成長し、相互銀行法の制定で相互銀行に転換。平和相互銀行となった。駅前から住宅地まで首都圏随一の店舗網、夜7時までの窓口営業、都銀各行と提携しATMではどの銀行のキャッシュカードでも使用可能とする等、当時最も便利な銀行であった。しかし、創業以来小宮山英蔵ならびに小宮山一族がオーナーとして君臨し、グループ会社の[[太平洋クラブ]]等に対する不明瞭な融資や放漫かつ乱脈融資で知られ、「闇の紳士の貯金箱」とも揶揄された。[[1986年]](昭和61年)についに破綻し、住友銀行に救済合併された。旧平和相互銀行の若手行員の中には合併後十数年の出世競争に生き残り、三井住友銀行の部店長にまで昇進した例が複数あることも事実である。旧平和相互銀行本店は[[1990年代]]まで「第二東京営業部」として存置され、同行の店舗は店番が800・900番台として区別された(支店番号としては統合されてはいるものの2017年現在も存続)。
<!--[[画像:千代田営業部旧館.jpg|thumb|200px|right|千代田営業部 旧館<br />(旧わかしお銀行本店 旧館)]]-->
; [[わかしお銀行]]
: 戦前'''相互無尽'''という名の無尽会社として東京・神田神保町で開業。大日本無尽への統合にも加わらず独立を守り、戦後 「 '''第一相互銀行 」''' に転換後経営危機を迎え、日本相銀の支援を受けるも再建後は[[富士銀行]]に接近して救済合併を免れた。しかし[[1989年]](平成元年)、当時の小林社長による乱脈経営で行き詰まり、太陽神戸銀行ほか都銀数行による管理体制に入る。同年10月第二地銀に転換し、'''太平洋銀行'''となるも[[バブル崩壊]]による経営危機で遂に破綻。受け皿銀行としてさくら銀行全額出資のわかしお銀行が設立された。以降、太平洋銀行を承継した同行は東京の第二地銀として中小企業金融を中心に営業していた。[[2003年]](平成15年)[[3月]]に、( 旧 )三井住友銀行の有価証券含み損(約8000億円)を資産の含み益(約2兆円)を帳簿上現実化させる目的でわかしお銀行が存続会社となり(旧)三井住友銀行を合併するいわゆる「逆さ合併」を実施した。千代田営業部旧館の建物は[[関東大震災]]時の震災復興建築として知られている。