「赤松義雅」の版間の差分

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永享12年([[1440年]])3月17日、第6代将軍・足利義教の命令で義雅の所領は全て没収され、改めて兄の満祐の他に一族の[[赤松貞村]]、そして[[細川持賢]]に分割して与えられることになった。これは義教の有力[[守護大名]]に対する干渉策の一環であるが、これが原因で義教に対する満祐の憎悪がさらに高まったという<ref>『建内記』では満祐が一部の所領を安堵してほしいと義教に願ったが聞き入れられなかったという。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。207頁。</ref>。
 
嘉吉元年(1441年)6月24日の足利義教[[暗殺]]事件である[[嘉吉の乱]]では、義雅は[[播磨国|播磨]]に在国しており兄や弟の則繁らが義教暗殺を計画していたことに関与していなかったという<ref>『[[建内記]]』9月24日条では義雅は将軍暗殺の事を知らなかった。しかし満祐の縁者なので連座は逃れられず、満政に遺児を託して自害したとある。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。252頁。</ref>。しかし将軍暗殺後、義雅の一条町屋にあった屋敷は満祐によって焼かれており、また満祐の実弟であることから否応無しに満祐方とされてしまった。そして[[山名宗全]]を主力とした幕府軍が赤松討伐に乗り出すと、満祐の命令で山名軍が攻め込んでくる[[但馬国|但馬]]口を守ったが8月30日に敗れ、赤松家居城の[[城山城 (播磨国)|城山城]]に立て籠もった。しばらくは幕府軍相手に善戦したが、9月9日の夜に息子の千代丸を連れて城から脱出し、一族の[[赤松満政]]が担当する攻め手の陣に投降した。しかし将軍暗殺首謀者の近親者であるため許されるはずも無く、千代丸を満政に託して自害した。享年45。
 
辞世の歌は、「思ひきや、四十路あまりの、春秋を、花や紅葉と、散り果てんとは」<ref>『[[赤松盛衰記]]』。『赤松円心・満祐』吉川弘文館。252頁。</ref>